民間企業に比べ、著しく高い過労死認定のハードルに苦しむ元教員の遺族がいる。横浜市立中学の教員だった工藤義男さん=当時(40)=は激務の末に2007年、くも膜下出血で帰らぬ人となった。妻の祥子さん(44)=町田市=は、職場の協力も得て、地方公務員災害補償基金(地公災)県支部に公務災害認定を求めたが、結果は「公務外」。不服申し立てによる14日の審査請求の口頭意見陳述に備えている。 アメフット選手から教員に転身した、心身ともに屈強な人だった。 力量を買われ、市立霧が丘中時代の05年度から「生徒指導専任」を任された。激務のため、市教育委員会が避けるように求めている学年主任との兼任を、2年間余儀なくされた。さらにサッカー部顧問や進路指導担当なども兼務した。あざみ野中に異動した07年度も転任直後から生徒指導専任となり、加えて20以上の委員会、部員87人のサッカー部顧問などを重任していた。 前任校から続いていた激務に、市教委も「ごく少数」と認める転任直後の生徒指導専任への就任。前任校の倍以上の生徒数と異なる気質。連日の委員会出席と、多発するトラブル、大所帯の部活指導…。夜遅くに帰宅しても、残務処理のためパソコンに張り付き、そのまま突っ伏す日が続いた。食は細り、弱音を吐くようになった。2カ月で7キロも痩せた。祥子さんは「何としてでも休ませればよかった」と悔やむ。 工藤さんは07年6月12日から2泊3日で、3年生の修学旅行を引率。睡眠は1日2時間に満たず、帰宅後「頭が痛い」と言い、そのまま寝込んだ。同20日に、ようやく訪れた病院の待合室で倒れ、くも膜下出血で脳死判定を受けた。5日後に40歳で亡くなった。 08年10月、地公災県支部に公務災害を申請した。教員仲間のみならず、任命責任を問われるため、一般的に「公務上」と認めることが少ない学校側と市教委も今回は認め、資料作成に全面的に協力してくれた。 決定通知が届いたのは、2年後の10年5月。「公務外」だった。支部は前任校でのあり得ない兼務も、転任直後の生徒指導専任就任も「過重な業務」とは一切認めず、工藤さんの職務を「通常の範囲内」とした。 代理人の山下敏雅弁護士は「決定は工藤さんの労働実態から懸け離れている」と指摘する。始業・退勤時刻を過小に算定した上、修学旅行中の時間外労働や自宅労働を一切評価しておらず、「実際には直前5カ月間の時間外労働は平均108時間」と主張する。 「教員はタイムカードがなく、勤務時間の証明が難しい」と話す全日本教職員組合は、「地公災は時間外労働の評価を(過労死と認められる)月80時間を超えないように算出しているのでは」と推測する。 14日の口頭意見陳述を前に、自身も小学校教員である祥子さんは「夫の死が過労死と認められないなら、教員は誰も安心して働けない」と悲壮な覚悟でいる。
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