
人間の真理として気になったので質問しました。
宝塚の団員の自死から、宝塚歌劇団を批判しながらも観劇し、宝塚を消費する、タカラジェンヌを消費するという新聞記事がありましたが、なぜそんなことがおきるのでしょうか?
とても重要で複雑な問題提起ですね。宝塚歌劇団の団員の自死という深刻な事件を受けて、宝塚を批判しながらも観劇を続け、タカラジェンヌ(出演者)を「消費」し続けるという現象については、いくつかの社会的・心理的要因が絡んでいます。
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1. 「構造」と「個人」の分離
観客やファンの中には、歌劇団という組織の問題(パワハラ・過重労働・閉鎖性など)と、そこで演じているタカラジェンヌ個人の魅力や努力を分けて考えている人が多くいます。
「劇団のやり方には問題がある。でも、舞台に立っている彼女たちは関係ない」
このように考えることで、倫理的ジレンマを避け、観劇を正当化している場合があります。
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2. 娯楽への依存と感情の複雑性
宝塚は多くのファンにとって、非日常で癒しの場でもあります。
観客の中には「宝塚が心の支え」という人も多く、劇団への批判的な感情と、タカラジェンヌや舞台への愛情が共存している。
つまり、「嫌いだけどやめられない」状態に近く、いわば依存的消費になっていることも。
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3. 応援という名の消費
現代のエンタメ消費は「推し活」など、応援=消費の側面が強くなっています。
ファンは「自分が応援しなきゃこの子たちは消えてしまう」と思い、チケットを買い続けたり、グッズを購入する。
しかし、これは応援に見えて、実は構造を維持・加担してしまっていることも。
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4. 無力感と現実逃避
劇団を批判しても、自分一人では何も変えられないという無力感があります。
「それでも観たい」「個人を救えないけど、せめて自分だけでも応援したい」と思ってしまう。
社会問題として考えるにはしんどすぎて、問題を直視せず、現実逃避的に観劇を続けるという選択をする人もいます。
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5. 文化と歴史の重み
宝塚は100年以上の歴史を持ち、日本独自の文化的価値を帯びている存在です。
「伝統を守りたい」「この世界がなくなるのは惜しい」という思いが、問題を相対化しやすくします。
つまり「問題はあるけれど、宝塚という文化そのものは守りたい」と考える人が多い。
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まとめ:なぜ批判しながらも観劇するのか?
理由 内容
構造と個人を分けて考える 劇団は悪くても、タカラジェンヌには罪がないと考える
娯楽としての依存 宝塚が心の支えで、やめられない
応援=消費 応援という行為が、実は構造維持に加担している
無力感 自分には変えられないという諦めから、観劇を続ける
文化的価値 宝塚という歴史・文化そのものへの敬意がある
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この現象は、現代の消費社会や推し文化の構造的な問題も映し出しており、単なるファン心理では済まない深いテーマです。
「良いものを見たい」「応援したい」という気持ちが、時に加害的な構造を支えてしまうこともある。その矛盾にどう向き合うかが、これから問われているのかもしれません。