かめはめ波と北斗剛掌波に見るジャンプと80年代カルチャーに支配される現代の我々 | ぽよぽよ、その℃-uteな生き様 〜そして男達は東へ向かった〜 第2部・前編
昨日ある調べ物の途中で北斗剛掌波がかめはめ波より登場が後と知って連載期間を調べてびっくりした。
現在の大まかな鳥山明評で「圧倒的精緻さにポップなデフォルメの感性を加えた発明と呼ぶべき絵で劇画調全盛の時代を終わらせた」というのが広く浸透してるから。
自然と北斗の拳は鳥山明前リンかけ後くらいの雑な認識だった。



いやそりゃ修羅の国編とかその後の諸々を入れたら北斗の拳も長いから時期的に重なる部分はあるかとは思ってたけど、それでも80年代を前後に分け合う感じだと思ってた。
むしろ連載期間の大半でドラゴンボールと肩を並べていたという印象は全くなかったので驚いた。
‪ドクタースランプの後で絵柄的には古くなりつつあったのに大ブームを巻き起こした北斗の拳はすごい。

‪ジャンプ史のメインストリームのバトンリレーをリンかけ→北斗の拳→ドラゴンボール→ワンピースというような捉え方してる人はネットでも多いように思うんだよな。‬
‪70年代80年代90年代00年代といった大まかな感覚で。‬
実際にかめはめ波の起源は北斗剛掌波と言ってる人間はネットでよく見かけた。今は知らんが。
‪なんにせよ北斗の拳がドラゴンボールと同時代の作品という感覚は現代のちびっ子にはないだろう。
例えばマイケルジョーダンのチームメイトと言われてロッドマンやカーという後期スリーピートのメンツを中心に思い浮かべるのと同様に、
ドラゴンボールの同僚はスラムダンクであり幽☆遊☆白書であるという絶対的に強固なイメージが我々にはある。
(いい歳こいて全ての事象を漫画アニメゲーム歴史NBA芸能界IT業界で例える癖はやめろ!!!)




‪あとは連載期間の画像見てて90年のジャンプすげーなとか
部数の下がる時期と下がり幅を見ると実質ドラゴンボールとスラムダンクの二本柱だったんだなとか
ひばりくんまで入れても江口寿史は北斗の拳ブーム前にはもうジャンプ去ってるんだなとか‬
‪やっぱり知ってるようで正確には知らないことまだまだ沢山あるなとしみじみ思った。















ここからは考えを整理するための取り留めのない自分用メモ。

それにしても見ててつくづく思うのは俺の(ということはだいたいの現代人の)皮膚感覚で理解できるコンテンツが80年代からということだ。
正直俺はリンかけは読んだことがない。
特別読みたいと思わないし詳しく知らないと話題に入れず困るというような必要性も感じない。よほど金と時間が有り余って目の前にあれば買って読むが。
‪70年代って現代に残る漫画と地続きじゃないというか感覚としては一気に手塚治虫とかその辺が出てくる感じだからな。
‪やっぱり漫画に限らず日本のカルチャー全体の空気が80年頃を大きな境にしていると感じている。
はっきりとした新国風文化とでも言うべきものが確立した時期、オタク第一世代も活躍し始めた時期だと。もはや戦後ではないと。
例えば鳥山明以後のジャンプ漫画なら今のちびっ子達でも「懐かしの漫画」じゃなく「今の漫画」としても違和感なく普通に読めると思うが、70年代の漫画となると面白くても時代を感じる子もいるはずだ。
ガンダムが好きだからファーストから逆シャアまでは普通に観ても、リメイク作品が好きだからとマジンガーZ本編を観るちびっ子はかなりレアなのではなかろうか。
‪スーパーマリオは時間を忘れて楽しく遊べてもスペースインベーダーは娯楽のない温泉旅館にでも置かれてないと熱中して遊ばないだろう。

やや都合よく選んでまとめてる気がするが実際にパッと浮かぶものを書いたから仕方ない。
別に自分の中で70年代が古いというわけでなく80年代が劇的に身近で新しいのだ。
断絶している感じすらあるのだ。だから80年代以降のカルチャーには自然と詳しい若い子でも70年代は上手く捉えられないのだ。きっとそうなのだ。



例えばアニメ映画で80年代を代表する作品であるAKIRAと70年代を代表する(断言)作品であるマジンガーZ対暗黒大将軍を比較してみよう。
無作為に抽出した2作品を比較した際に、現代っ子であれば作品の内容どうこう以前に作画から受ける第一印象が全然違うはずだ。

↑80年代代表。今でもハイクオリティ。


↑70年代代表。フィンガー5の笑顔が眩しい。



予算が違うとか画面に情報量を詰め込むのがブームだったとか色々な声もあるかもしれないがとりあえず無作為に抽出した2作品の比較ではこうなった。
もちろんパッと見の絵の古い新しいは作品の価値ではない。
70年代のアニメ映画にだって作画で古さを感じても、名監督の名コンテと名演出による名作は多くある。
まあ一部には作画でもほとんど古さを感じさせない例外的存在はいるが……宮崎駿は古い新しいではなく自身のブランドを築いたからこちらにそう感じさせる異次元級の天才なのでここでは扱わない。
そもそもカリオストロは79年の12月15日公開なんで、映画監督としての宮崎駿のキャリアは実質80年代から始まると認識してしまっていいだろう。うん。
それなら大友のAKIRAも卑怯?いや別にオネアミスでも何でもいいし。

結局80年代からのカルチャーが未だに現役であるということが、
ネットやってる多くの世代がある程度の価値観を共有して楽しくお話できる最大の理由であるし
日本の芸能界、社会全体の新陳代謝が進まなくなった理由でもある。
ドリフは70年代の代表だった。そのイメージを残したまま80年代には代表になれなかったのでその後は長く君臨することはできなかった。
加藤茶と志村けんがかろうじて延命してた感じがするのは加トちゃんケンちゃんごきげんテレビが80年代の代表としてあったからだ。スッキリした。

そしてそうしたカルチャーは90年代で円熟し停滞し以後はすべての文化が過去の焼き直しのようになった。
それに伴い経済も云々と語れるかもしれないがそんな専門外なところまで風呂敷広げて休日を潰すつもりはない。
90年代わしがちびっ子であった頃に生まれたコンテンツ達は息が長く今の子供達にも多く親しまれている。
果たして進撃の巨人や鬼滅の刃が20年後の子供達にもワンピースのように親しまれているのであろうか。
有象無象の深夜アニメはエヴァのようになれるだろうか。
妖怪ウォッチやスプラトゥーンはポケモンのようになっているか。
小説は、スポーツは、バラエティ番組は、インターネットは、
わからない。
ただ個人的に強く思うのはリバイバルで親子二代で楽しめるような、受け継がれていくコンテンツが多いのは結構なことではあるが
子供達にはその時代の子供達のために生まれて子供達が育てたと自負できるようなコンテンツがあってほしいということ。

これはもう俺の思想レベルになっているので、そのためにできることがあれば何でも協力したい。
今を生きる子供達にはその時代の子供達のための新しい素晴らしい物を、子供達の思い出を残してやりたい。
子供達がみんなで振り返ることのできる大きな物語を残したい。
ていうかいい加減もう大人なんだからてめえで子供達のためのものを作る側に回れよとは思うし行動はしてるがまだその力がない。


1983年宮本茂は初代マリオブラザーズを作り上げ、大阪の喫茶店ではダウンタウンというコンビが生まれた。
1984年バスケの神様マイケルジョーダンはNBAデビューを果たし、スティーブジョブズはAppleでMacintoshを生み出した。
アニメ映画の当たり年だったこの年に庵野秀明はナウシカで若き天才アニメーターの名声を獲得していたし、社会現象になった大ヒット作ドクタースランプを終了させた鳥山明は日本漫画史上最大のヒット作となる次の連載を始めた。

我々のすべての文化は永遠に愛すべきビッグブラザーズの影響下なのか。そしてそれは悪いことなのか。
それを決めるのは今を生きる我々自身である。
そう、未来は僕らの手の中。
TOMORROW IS IN YOUR HANDS.


何を調べてこんな話になったんだっけと思ったら北斗剛掌波だった。
というか検索履歴見たら最初に調べてたのは剛掌波ですらなく天将奔烈だった。
とにかく忙しい休日にここまで妄想を膨らませられるかめはめ波はすごいなという話。時間返して。
















‪漫画の話で思い出したがもちろんあしたのジョーとドラえもんだけは別格。
70年代どころか60年代スタート(!?)のはずだが今読んでも絵柄やコマ割に古臭さを感じない。感じる奴は俺が殴る。
60年代って……信じられんわ。
梶原先生も自分と組んだ時には彼(ちばてつや)はすでに大家であったとか言ってたと思うが
まさしくその点は天才ちばてつやの偉業であろう。
ジャンプのことを語ってたはずなのにやっぱり俺のブログだと最後はあしたのジョーの話題になってしまうんだなぁ。。。
あと魔女っ子メグちゃんかわいい。


P.S.
ドラえもんにはご存知1973年の日本テレビ版と1979年からのテレビ朝日版がある。
もしもドラえもんの1973年版が失敗せず70年代を代表する大ヒットテレビアニメになっていたら
オバケのQ太郎から続く藤子不二雄アニメの流れの有終の美を飾って70年代で終わっていたら
そのブームが80年代に入っていなかったら
果たして現在ドラえもんは懐アニではないこうした形のコンテンツとして残っていただろうか。
暇人の妄想に終わりはない……