ある朝、goodvalueandqualityがなにか気掛かりな夢から眼をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫に変わっているのを発見
していたら、その不条理さに愕然としたに違いないが、自分が白ねぎを抱いて寝ていたことに気付くぐらいでも少々落ち込むものである。
この前、豚の角煮を作ろうとして買い忘れてた材料。
何でねぎを抱いていたのか不思議に思いながら起きあがると、猛烈に腹が痛い。そして、寒い。最近、朝と夜が普通に寒い。カーディガン着てても寒い、心が。
それはイイとして、近頃、季節の変わり目ということもあって、体調が悪い。持病が全部出てきた。鼻炎に腰痛に偏頭痛、そして山根。あぁ、病弱。鼻炎は何年か前に粘膜を焼いて以来平気だったのだがどうやら再生したようだ。偏頭痛も高校以来大してなかったのが、近頃よくある。もうサイアク。そーいえば、鼻炎と偏頭痛を合わせると、風邪に限りなく近い症状になるわけだが、熱がないため、小さい頃よく仮病扱いされた。ウソつくんじゃないわよっ!みたいな。畜生、グレてやる。
今日は、BBQとテニスという予定だったが、私だけ雨天中止。雨降ってんのに、十三まで行きたかない。ぽけーとしながら、久しぶりにポストを覗くとおじい様から小包が。中には、大量の米が。一昨日買ったばっかりです、おじい様。あと、三枚の手紙と一万円も一緒に入っていた。残金、1600円しかなかったから大助かりである。手紙の内容は、『失敗と私』とも言えるような内容で自分の生い立ちからざっと書いてある。やっぱり、ものすごく心配されている。ついこの間は、中小企業の社長が書いた『失敗に強くなければ成功できない』という私が生まれた年に発行された本が届いた。中身は抽象的な精神論に加えて、『英雄色を好む』的恋愛論まで書かれており、まさに下世話様である。いったい、実家で私のイメージはどうなっているのだろうか。
私は、今までの人生の中で失敗したと思ったことがない。こんなんで何を言ってんだと思われるかもしれないが。成功・失敗という判断は、そのほとんどが自分が決めるものである。具体的に言えば、途中でやめること・しょうがないと思うことであり、失敗しない方法とは、成功するまでやり続けることだと思っている。つまり、どれだけ、それに対して持続力、執着心、飢餓感があるかが肝要であり、成功とはどれだけ自己満足を得られたのかということだ。人間とは、物質的世界に身を置きながらも、限りなく精神的なものである。傍から判断して、お金があるから、成功ともいえないし、遊んでるから幸せともいえない。極端な言い方をすれば、自分以外は、人もモノも金も情報も、全て自己満足を得るための手段といえる。
アメブロの今週のお題には、『人生とは? と問われたならば、ひとつには何かを探し求める旅路だということができるかと思われます』なんてオサレなことが書かれているが、上記のように考える私にとって人生とは、選択と決断の連続でしかない。なんて無味乾燥な意見だろうか。しかし、これが自覚的に行われなければ、人生なんてのは酷くつまらない。例えば、女の子を好きになって、別れて、また別の子を好きになって。新しい友達が出来て、消えて、また新しい場所で出来て。同じことの繰り返しだ。ぐるぐるぐるぐる。主観的に、自覚的に選択と決断が行われなければ全てが、代替可能な存在や出来事になってしまうし、そう思ってしまったら、ものすごくめんどくさい。主観的な世界においてこそ、代替不可能なものが生まれるのである。
また、自覚的な選択と決断を行うことで、一過性の、直線的時間の流れも実感できる。そして、それは人生において後悔の念をも抑えることができる。後悔とは、自分の意識を過去に飛ばす行為だが、考え抜いて出た決断は、自分の背中を押すものであっても、自分の足を引っ張るものにはなり得ない。
まあ、何でこんなことを言っているかといえば、両方経験しているからだ。
一週間で大学の勉強と教授のスタンスに何も見出せなくなったものの、大学生活を振り返れば、女のコトと将来のコトしか考えていない。しかし、結局、自分のスタンスも決まらないまま、選択と決断を放棄し、付き合っていた子とは別れ、将来については答えを出せず、上記のような円環的時間だけが過ぎている。その子と別れたときは一人前にヘコんだものの、だいたい、そんな凪の状態。からっぽだ。だいたい、自分の方向性も決まらないのに彼女もクソもない。昔から、拗ねたらよくこうなる。一時期、『何も望まないから、何もしたくない』なんて甘っちょろいこともよく考えた。何に対しても決断したら、おのずと責任が発生するからね。自分に対して、両親に対して、兄弟に対して、友人に対して、彼女に対して、社会に対して。もう責任とかこぇーよぉ、もういいよぉっとなってたわけである。
そもそも、選択と決断を思った理由は、様々あるわけだが色々なモノに影響されながらも自分で歩いている・自分を育てている実感が欲しかったからだ。だから今でも、縁だとか、運だとか、霊だとか、性欲とか、一時的な感情とか、占いとか、宗教とか、哲学とかが嫌いである。一時的なものに振り回されたくないし、決断を何かに委ねたくもないし、何か大きなモノに帰属したいとも思わない。誤解がないように言えば、どれも手段として利用するなら賛同できるが、それが自身の決断よりも前にいってしまうことが嫌なのである。また、宗教も哲学も学問として捉えるならいいが、自身の人生の指針となってしまうことが嫌なのである。私にとって、宗教も哲学も自分ルールであり、多くの人に向けた最大公約数的なものでしかない。また、他人の人生をなぞりたいとも思わない。
まあ、哲学に関して言えば、知るのが怖いだけである。私の考えなんてのは、どーせ誰かが考えていることだ。しかし、宗教は知識としては大したものがないものの小さい頃から触れている。母方は仏教徒(草加じゃないYO)、父方はキリスト教徒であり、我が家にはキリストの像と仏壇が両方ある。洗礼名があれば、自分のご供養セットもあるし、キリストの血と肉を食べれば、饅頭も食べた。教会でキリスト生誕の劇をやれば、仏壇の前で足痺れさせながらお経も唱えた。こっちでアーメン、あっちで南無妙法蓮華経。
いや、実際、無力ですよね。さらに言えば、自分の意識をそーゆうものに帰属させている人は、弱いし(人間なんて弱いものだが)、話すことも『だからなんですか?』ということしかない。気力が萎えることはあっても、与えられることはない。感謝しましょうと言われて、『ありがとう』と口に出せても実感はできない。世を儚むことはできても現状を打破することはできない。そんなもん。
人は外部の様々なモノから影響を受ける。感情という受容器によってそれらの刺激を受けとめ、そこから自分の中で喧々囂々の議論をし、主観的な選択と決断を経て、意志が形成されていく。そして、その決断こそ意志を達成するための動力となり、また、達成するために客観的な選択と決断を繰り返していくのである。
人生とは、選択と決定の連続であり、意志を達成するという点において、常にその過程でしかない。