はっ!としてブレーキを踏めるだけ踏む。

眠ってた・・・・。

1号線のコンビニ駐車場と気付く。

耐えられなくて止めた。記憶をたどる。

止めたことすら忘れていた。


仕事の途中で姉のいる鶴見に向かう。

二俣川に送る。癌センター。

最初は松葉杖だった。

最後は車いす。


2度目の抗がん剤は施してもらえず、腎不全を併発。

転移が早い。

この時に、「ここで行える治療はありません」と伝えられた。

最後の砦のはずだった。

つまり、死の宣告。余命は夏を越せるか・・・・・と

親父の涙を見たのは初めてで。

自分の涙をこらえるのと、軽い嗚咽をこらえるので必死だった。

長袖を着ていたので6月の初め

平静を装う、かける言葉が見つからない。

「いい時間は、後にはないからね」

先生の言葉は意味が解らず、怒りがこみ上げる。

のちに、精いっぱいの思いやりだったと気づく。


それから家族で闘病生活が始まる。

治療のない闘病生活。

せめて進行を遅らせてやりたい。

母は毎日、パートの後、八景から鶴見に通う。

疲れ果てて帰ってこれない母を、夜8時・平塚から親父が迎えに行く。

弟は姉のところに居候しながら食事療法。

毎週月曜日は自分が朝から付き添う。

あれ?先週はしっかり喋れてた。先々週は歩けてた。

行くたびに衰弱していくのがわかってしまう。

いい時間は、動ける時間は後にはない・・・のか

2時間おきに15分かけてトイレに行く。

狭い部屋。狭いトイレ。車いす。手すりもない。

15分かけて便座に座り、15分かけて車いすに戻る。

自分で脱ぐことができない。


免疫細胞治療。

自分の血を強化してまた戻すので、副作用がない。

効果もない・・・・一回16万円

メシマコブ・フコイダン・亀水

あー、こーやって効きもしないものにすがってしまうんだ。

去年の冬に重粒子線300万円を払った。

それでも免疫細胞治療

4回目ぐらいだったか、実家の貯蓄が底をつき

6回目までしか受けさせてあげられないと姉に告げる。

姉の貯金もジリジリと減っていた。

娘が2人いる。

毎月少しずつ少しずつ貯めていた将来の貯金を、自分の治療で削ってしまうのが耐えられない。

ありもしない、わずかな可能性も打ち切る。

そんな時、癌センターから連絡が入る。


自分が付き添う。

死に方を決めてもらえますか?だった・・・・

いざというときは、何が何でも呼び戻す。

管を付けてでも延命を施す。

または、諦めに目をつぶり、見守る。

・・・ディズニーランドに娘と行きたい。

衰弱した姉の、精いっぱいの願いは医者の問いとは無関係に聞こえたけど。最期と将来の間で揺れているのが伝わってくる。



顔と腕・見えるところは骨だけになっている。

ファインダー越しの姉がやけに細い。

後ろに見えるシンデレラ城がぼやける。

車いすで乗れるアトラクションは列車。

明らかに不自由な姉の方が、スタスタと歩く娘に気を付けるよう声をかける。 義理の兄の携帯が鳴る。

受け入れ先の病院が見つかった。


2人の娘が学校・幼稚園終わりでも間に合う病院。

が、条件だった。

「体が欲しているから、食べたいものを食べて良いんだよ」

直々に院長先生が姉の住むマンションに来てこう言った。

一瞬、頼もしく思えた一言だったけど。

のちに残酷な言葉だったと気付く。


迷った。

一段と細くなった腕。

ベットから起きる方法

車いすから便器に移る方法

「コツを教えてもらったらすぐに戻ってくるから」

姉が決めた。入院。



突然、フリーズする。

30分後に何もなかったように話し始める。

そんな姉がよくしゃっべっていた。

鶴見の病院。

妊婦の妻と子供と一緒にお見舞い来た。

輸血と点滴でだいぶ良くなっていた。

なんだ。こんなことなら早く入院させるべきだった。

と、家族みんなが思っていた。

その日の夜には花火大会があった。

娘と一緒に屋上で見るんだと話していた。

母と娘2人が病室に入ってきた。

姉はすでに2人しか目に入らない。

「少し起こして」

脇を抱え持ち上げる。

自分が姉にしてやった最後の頼みだった。


2日後

昼前だったか

仕事中に親父から電話が入る。

「すぐ来い」

思考が止まる。立ちすくむ。

妻に「危篤だ」と告げるときに涙がでた。

言葉にした途端、涙が出た。

運転中は意外と冷静で、どっかで現実ではないんじゃないかと思っていた。

病室につくとみんないた。

姉は1点を見つめ大きく呼吸をしている。

「勇介きたよ!!!」母のその声は姉に届いたんだろうか。

手を握っても握り返してこない。

頬を触っても反応しない。

腕から伸びた管。その先についている袋にはモルヒネと書いてあった。

その夜、息を引き取った。36歳だった

母が姉の腕を一生懸命こする。

「どうしよう勇介!姉ちゃんどんどん冷たくなっちゃうよ」

この言葉が頭から離れない。1年経った今でも、母と会うと思い出す。


姉と最期に交わした言葉は何だったかな。


自分の葬式に着せる娘達の洋服が準備してあった。

一人一人に宛てた手紙を兄から渡される。

たいした内容ではなかったけど、「ありがとう、ありがとうございました」

で締めくくっていた。弟に敬語?


どうしたら一番良かったのか

どうしてあげたら一番良かったのか

さっぱりわからない。


ノートが見つかる。

闘病日記というよりは感情を書きなぐった感じ。

悔しさでいっぱいのノートだった。


いつか終わる人生なら

「あれやっとけば」とか「してあげたかった」とか少ない方がきっといい。

「もう少し母親をしてあげたかった」ノートに書いてあった。


これを書くのに時間がかかった。

何度も手を止めた。

思い出せない苦しみと、忘れていく薄情さと。

この先、もっと忘れてしまう。

アメーバで記録させてもらいました。





















書いているうちに。

違和感を思い出す。


脚はパンパンに膨れ弾力を失い粘土のようだった。

リンパ浮腫

マッサージが必要で、痛がる姉に親父が毎日やっていた。

痛がる姉

なくなる1日まえ・・・

親父が病室を訪ねると

看護士がそのマッサージをしていた。

自分がやる以上に強く。

姉は何も言わない。

やはりプロだと思っていたらしい。


危篤で病室に着き、落ち着きを取り戻したとき

脚の腫れが引いているのに、親父と気づく

あの腫れはどこに行った?

腹がパンパンで素人には、脚のが腹に行ったと思えてならない。

ベットの姉は足を上げさせられている。

院長は「何か破裂しましたね」と母に告げていた。


姉は死ぬんだ・・・・と

どこかでなんとなく思っていた。

その最期を医者・看護士が決めて良いのか?

リンパ浮腫の脚を上に上にマッサージすると、それが腹にきて何かを破裂させるんじゃないのか?

「看護士が来て足をガシガシやるんだ、痛いんだけど大丈夫っていうから。

意識も遠くなるし。なんかおなかが張るし、苦しいし、大丈夫かな?」

もし、姉がこう言いたくても、すでにモルヒネでラリッていた。


リンパ浮腫をマッサージしすぎると死期を早める?

だとしたら、病院が殺人?


もし、モルヒネが入っていなかったら、痛みに悶えながら

「マッサージしたから。おなか張ってきて・・・・」

と、言うんじゃないか。と、思えて仕方がない。


どなたか知っている人がいましたら教えてください。