3.

聖書たち人間罪人になったのは、一人一人まれてからしたのために罪人になったのではなく、人間がサタンのき、サタンにだまされてれてしまった、さいしょのアダムのからまれたためだとっています。アダムとエバがサタンの入れた間違った考えを受け入れてしまったことは、彼らに属するすべての人類にも同じ結果を招くことになりました。



そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死が入り(ローマ512

もし、ひとりのひとの違反によって多くの人が死んだとすれば(ローマ515

さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められるのですが(ローマ516

ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に(ローマ519



すべての人間は、みなアダムの中から出て、アダムの中に属しているので、ひとりの人アダムの運命の中にすべての人類の運命が入っていて、ひとりの人アダムの不従順の中に全人類の不従順が入っていました。実際、アダムとエバが罪を犯した当時には地球上の人類が二人だけでした。アダムとエバが神の御言葉を不従順したことは、すべての人類の不従順となり、全人類が神を不信したことになり、アダムが神を離れたのは全人類が神を離れたことになり、アダムに死が入ったことは全人類に死の宣告をしたことになります。

すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。(第一コリント15:22)

それで、このひとりの人の中に属するすべての人類の罪を贖うためには、全人類の罪を担当する一人の救い主、罪がない一人の人の贖いが必要で、神はその救い主としてご自身の息子キリストを送りました。 ひとりの人の罪を解決するためには、ひとりの人の死が必ず必要であるためで、ひとりの人の罪を解決するためには、ひとりの人イエス・キリストの従順が完璧だからです。



とにかく私たちすべての人間はこのように神を離れ、罪を犯したアダム、サタンにだまされそのしもべとなったアダムの中から生まれてきたため、私たちの後天的な行いとは関係なくアダムと同じ運命に置かれるようになったのです。私たちはアダム号の列車に乗った乗客なのです。それで、アダムの運命は、アダムの中にいる私の運命になりました。自分のたましいを殺したたましいの殺人犯であるサタンの子にアダムがなったとき、アダムの中にいる私たちすべてはサタンの子として生まれ、死とのろいの下に入ったのでした。



あなたがたは、あたながたの父である悪魔から出たものであって、・・・悪魔は初めから人殺しであり (ヨハネ8:44)

ああ、私は咎ある者として生まれ、罪あるものとして母は私をみごもりました。(詩篇515


いくつかの過ちを悔いて、もうそういうことはしないと覚悟すべきなのではなく、根本的に生まれ変わらなければならないと力説している理由がまさにここにあります。私たちはすでに神を離れ、悪魔の奴隷となってしまったアダムの中から生まれ、罪と咎のために死んだため(エベソ2:1)、行いを変えて神の前に出るのではなく、まずそのような自分の霊的状態をはっきり知り、自分の道から立ち返らなければなりません。自分がいったい何の下にいるのか、自分のたましいの主人が誰なのかをはっきり知った時、本当の悔い改めができ、神の恵みを求めるようになるのです。



自分が罪のためにすでに死が確定していることを知ったなら、その人に必要なのは、行いや努力ではなく、ただ神のいのちと憐みだけであることを悟ります。心に死が訪れていない人は、自分の行いや努力にこだわり、自分の義を立てようとします。しかし、神の御言葉によって心に死が臨んだ人にとって、自分の苦労や努力が何の意味もなく、期待できるものはただ神の心にある無償の恵みとあわれみだけです。これが悔い改めの始まりです。


裁判官の判決が下る前や、刑が確定する前には、罪人の行いや努力に意味があるかもしれませんが、すでに最終判決として死刑宣告を受けた人なら、善行や反省が何の意味があるでしょうか。その時からは、自分の運命やいのちに、そのような行いは何の益にもならず、すでに確定した判決に影響を与えることはありません。その自分のたましいの状態を悟った人は、神が与えてくださる恵み以外には、他に救いの道がないために、神の約束だけを待ち望みます。自分するすべての期待を捨てて、神の救いの手だけを待つ人の心は、低くなり貧しくなります。このような人が本当に悔い改めた人です。


4月24日 午前10時ソウルの室内競技場では最大規模のオリンピック体操競技場で、喜びニュース宣教会全国合同イースター(復活祭)記念礼拝がありました。
「よみがえられた主イエス、私はいつも仕える」というタイトルで、全国から1万5千人が集まりました。



復活祭は、キリスト教の祝日の中で最も歴史の長い記念日で、私たちの罪のために十字架につけられたイエスキリストが死んでから3日後によみがえった勝利の日を象徴しています。
人間がもつ最も本質的な限界がまさに「死」ですが、それをイエスキリストが復活したことで勝たれ、さらに驚くことにその復活の勝利を私たちに下さったということです。

残念ながら、多くの教会でイースターの行事は毎年行いながらも、主の復活が自分のものになっておらず、主は死の勢力に勝たれたのですが、自分たちはいまだに罪の下に、死の支配下で生きています。そのため、クリスチャンが世の光と塩になるのではなく、堕落し世の批判を受けているこの時代に、このように復活の本当の意味を伝えることが、とても意味のあることです。



全国の教会がソウルの体操競技場に合同で主の復活を記念する礼拝をささげたのですが、15,000人余りの兄弟姉妹が集まる中おこなわれた今回の合同礼拝は、グラシアス合唱団の公演から始まりました。



そして説教の時間には、パク・オクス(朴玉洙)牧師(カンナム教会担任)は、マルコび福音書16章を通して、「マルコの16章1節から18節までは、イエスの弟子をはじめとして、イエスのそばにいた人たちの信仰のない姿を表現しています。しかし、20節で復活したイエスがともにおられたので信仰がなかった人たちがエルサレムを福音で覆い、全世界に福音が広がり、今日まで伝えられている」と伝え、参加者に「私たちがいくら信仰がなくても、自分の目で自分を見るのではなく、イエスがごらんになる目で自分を見るなら、力ある主の働き手として変われます」というテーマでイースターのメッセージを伝えました。




信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって、彼が義人であることの証明を得ました。(へブル11:4)


アダムの子、カインとアベル。
長男カインは土を耕す者となり、次男アベルは羊を飼う者となりました。

ある時期になって、2人はそれぞれ神の前にささげ物を持って来ました。
カインは地の作物を、アベルは子羊を持って来ました。

ところが、神はカインのささげ物には目を留めず、アベルのささげ物だけ受けられました。
カインはひどく怒り、アベルを野に連れ出し、アベルを殺してしまったという話が創世記の4章にあります。


なぜ、アベルの物は受け取られ、カインの物を拒まれたのでしょうか。
へブル人への手紙11章には、アベルは信仰によってささげたと書かれています。
信仰によってささげたというのは、一体どういう意味でしょうか。

「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによるのです」ローマ10:17

信仰と言うのは、自分で作り出すものではありません
信仰は、自分の努力とは無関係です。

「信仰は、聞くことから始まり」ます。
聞くためには、だれかから教えてもらわなければなりません。
アベルは、「キリストについてのみことば」をアダムやエバから聞いて教わりました。

神は、キリストだけを受け取られるのであって、人間の努力や善は受け入れられないことをアベルは知っていました。
アベルは決して、自分の判断で子羊をささげたのではありません。
アベルが「信仰によって」ささげるために、まず、聞いたのです。

カインは聞く機会がなかったでしょうか。
カインも聞いたはずですが、残忍に羊を殺してささげるよりも、丹精込めて作ったおいしいの産物をささげた方が、神は喜ばれると思ったのです。
神は、そのカインのささげ物と、カインを退けました。


カインが何か足りなくて、アベルがすばらしかったのではありません。
アダムは、神がイエス・キリストだけを受け入れられる方だということを知って、信じていたのです。
そうして、彼は早くこの世を去ることになってしまいましたが、「義人」としてよみがえりの日を待っています。

「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによるのです」ローマ10:17