人間の一番重要なことは、生まれてくることと死ぬことです。
これ以上重要なことはまあない。
それからいかに生きるかというのが問題になりますが、生に始まって死に終わる。
これは人生の重大問題です。
生まれてくる時は生命を受けたという喜びがありますが、死ぬ時はみんな喜ばない。
大体が泣きます。
目に見え手にも触れなくなるわけですから、みんな悲嘆にくれるわけです。
ところが、大きな意味の人生の本性、永遠の生命的な本性からいきますと、生まれてくることも、あの世へ行くことも本当はおめでたいんです。
ただ、おめでたくない生き方もある。
それはどういう生き方かというと、心の中にいろいろな業想念、例えば迷いの想い、恨みの想い、肉体に執着する想い、この世に把われている想いがたくさんあり、その想いのままに生きていると、あの世へ行くことが嬉しいことじゃなくなる。
実際にあの世に行って苦しみますから。
わけても霊界のあることを信じないで、否定していて、肉体が亡くなればそのままでもう人生は終りだ、死んだら生命があるものかという想いのままであの世へ行けば、一番不幸せです。
死後の世界を否定しているのですから、意識が甦れば肉体の世界に甦ったと思うわけです。
そこで肉親や知人の肉体にまつわってきて障(さわ)りになったり、あるいは闇夜のなかを歩いてみたり、生命のないところをうごめいている。
それは一番恐ろしいことです。
ところが、みなさんのように、神様の存在も、霊界のあることも知っていれば、死ぬことなんかちっとも恐ろしくない。
高校から大学へ行き、大学を卒業して社会人になると同じように、死はこの世の役目を果たして一段階進歩することであって、ちっとも悲しむことじゃないんです。
だから、この世の生命がないとわかっているのに、ただいたずらに注射を打ったり、なんとかして命をとりとめようとしていることは、余計病人を苦しませているだけであって、肉体人間の人情としてはわかることですが、本当をいえば、逝くべきものはいかしめなければいけない。
それをひきとめているというようなことが随分ある。
お医者さんにすれば当然のことですが。
赤ちゃんが生まれようとするのに、もっと遅くなれ遅くなれ、いつまでもお腹に居ろ居ろといって押えている人はありません。
たいがい早く無事に生まれますようにといいます。
それと同じように、あの世へ行くのも赤ちゃんがこの世に生まれてくるのと同じような状態に思わなきゃいけないんです、本当は。
赤ちゃんが生まれておめでたいと同じようなおめでたさになるためには、この世に生をうけている間に、永遠の生命と一つになって、神さまのみ心を心として、あの世にいっても自由自在に働けるようになっておく必要があるわけです。
それにはどうしたらいいかというと、常に心の中で、ああ、神さまはいらっしゃるな、いつも守っていてくださるな、守護霊守護神さんがちゃんと守っていてくださる、こうして永遠の生命として自分の中にあるんだ、と頭の中で知っているだけでもいいんです。
普通の場合は神さまを形の上でつかめないから、頭の中で知っていてもあの世で役立ちますから、そういうことを常に心に描いて生きていれば、亡くなった先でも自由な生活ができて、悪いところへは行きません。
光明燦然たる世界へ行くんです。
皆さんのように、平和の祈りをして守護霊守護神たちに感謝している人は、絶対にあの世で苦しむことはありません。
これは私が保障します。
生き生きとした生活が出来るんです。
だから、もし友だち、法友のなかで亡くなる人があっても、それをあまり悲しまないで、どうぞ永遠の生命のなかにつながりますように、どうぞあちらでいい生活が出来ますように、あの世で天命が果せますように、そういうように祈ってあげて、それでさっぱりしていたほうがいいのです。
だけど、 “死ぬものは死ねばいい、あれは消えてゆく姿でもう行っちゃったんだ” なんて人情も愛情もない冷たい態度であっさりしたことをいわれても困るから、人情として泣く時はないてもかまいません。
ただ、 よくおかわいそうっていうけれど、そうじゃないです。
“ああ、あの世で新しい自由自在ないい生活が出来る出発だ、おめでとう” という、永遠の生命を認識した気持ちで送ってあげるといいと思うんです。
「永遠のいのち」 五井昌久 白光出版