八重洲から京葉線ホームに向かう途中で、巨大な日本地図レリーフを発見。確か占領軍向けに造ったものだっけ。ローマ字で書かれた主要都市の地名に名所名産の図、迫力がある。まだ敗戦直後は、敗れはしたが気概は失っていなかった。由来を調べたら実際に「進駐軍を驚かせる意匠を施そう」と製作が始まったらしい。
越中島で初降車してブラついてみた。年末に大ケガをしてしまい、やっとまともに歩けるようになったのでリハビリじゃ。もうジジィじゃ。
この辺りは安政期から軍隊の調練場があって、そのまま「調練橋」となったそうだ。典型的な下町風情で、深川ってこの辺だったんだと知る。ちょうど登校時間と重なり、都会は子どもも見守り老人も多くて活気がある。
津波警告の碑。こんな東京湾の奥地まで津波って来たの?とビビったが、地震津波ではなく寛政期(250年程前)の台風高潮だった。石碑は2/3程が失われているらしい。これは高潮だが、巨大地震とか、数百年に1度の大災害を後世に伝えるのは本当に難しいのだろう。太古弥生時代から、津波の被害を受けては高台に移住し、忘れた頃にまた低地沿岸部に戻り、を繰り返してきた証拠が東北地方にあると、先日タモリの番組でやってたな。
へー。鉄道への電力供給の為に、こんな町中に火力発電所があったんだ。今では考えられない。東京市街鉄道は都電の前身?
新木場駅構内で、出勤前のサラリーマン横目にモーニング🍺。一日の活力也。
都立第五福竜丸展示館。
1954年、アメリカのビキニ環礁での水爆実験によって被爆したマグロ漁船。世界が再び破滅に向かいつつある(ように感じる)今、改めて存在意義を示している。
被爆した後、東京水産大の練習船として暫く使われたとあったから、船名の文字は当時のものでは無いだろう(練習船は館山が拠点だったらしい)。
その後、この夢の島(ゴミの埋立地)に野晒しで放置されていた時期を経て、保存展示に至る。しかし立派な木造の舵だ。
練習船への改修工事の際は、工員も差別されて銭湯の入店を拒否されたとあった。こう言う愚かな同胞差別には胸が痛むが、俺も3.11の後は暫く福島産を避けてたな。
「死の灰」の現物展示。恐ろしい。
乗組員はコイツを全身に浴びて、深刻な放射能症を引き起こした。
ビキニ事件後、現地の放射線測定に当たった俊鶴丸に搭載されていたカウンター。製作した岡野氏は、チェルノブイリや福島でも測定したらしい。
弱肉強食の残酷な世界で安全保障を考えれば、日本の核武装論も否定出来ない。しかしそれが世界の破滅を加速させるなら、非武装の弱さを甘んじて受け入れようと思う。
無数の核実験で被爆したのは、もちろん第五福竜丸乗組員だけではない。現地マーシャル諸島ロンゲラップ環礁の人々の、苦難の歴史も紹介されていた。今また、気候変動海面上昇で危機を迎えている。
串本で造船されたからか、和歌山の学校からの千羽鶴が沢山あった。被爆時の出航港は焼津だったが静岡は見た限り無かった。
マーシャル・カヌーの模型と、ヤシなどで作られた海図。棒は海流、貝は島を表している。凄い。航海術は特権階級の秘伝だったとあるが、南国の楽園に社会階層があったのか。いや、映画モアナ観てもあったな。
霞ヶ関にある領土・主権展示館に来た。
日本の領土問題(尖閣には領土問題すら存在しないが)を、国土の多様性と絡めてとても分かり易く展示していた。島根県庁舎で竹島問題の資料室は見学したが、これが霞ヶ関にある意義が大きいのだろう。
竹島はどう考えても日本の領土で、韓国の不法占拠中。しかし係争国の非はしっかり指摘しつつも好戦的でない説明文の数々。戦後日本人の人の良さと良識が滲み出ているが、警備員の方が入館者に一瞬警戒の目を向けるのが、施設の性格を物語っている(いや、俺の風体が単に不審だっただけか??)。
ニホンアシカの複製。1905年に島根県知事が竹島視察をした際に、現地のアシカ猟業者から譲り受けたものを、死後剥製にした。出雲の大社高校に保管されていたらしい。今では生育環境の変化で見られなくなった。それが不法占拠による結果なのかは知らない。
北方4島も、まごうことなき我が国の領土。筋も道理も正義も国際法も、こちら側にあると確信はするものの、あちら側にも同じだけの正義があるかも知れない。自国のプロパガンダに100%騙されていないとも言えない。要は只の国益同士のぶつかり合いで、先の大戦に負けたから・弱いからこんな状況が生まれたんだとも思う。
色丹島の写真。左下の鳥居は鯨骨で建てられている。和人の生活文化が確かにあった(元々はアイヌだけど‥)。
江藤新平君遭難遺趾碑。ん?ここで亡くなった訳ではないのか。
溜池
赤坂六本木虎ノ門、全く縁の無い地名たちに居心地が悪くなり中央線で郊外西国分寺へ。東山道武蔵路跡。ミヤコから陸奥・出羽に至る東山道の途中で分岐して、武蔵国府に至る律令国家官道の支線跡だ。
異様に広いこの歩道が官道で、変色した部分は両脇の溝跡とのこと。ここを、古代人が行き交った。
遺構の展示。この部分は切り通しの坂になっているようだが、当時からこんなにV字だったのか?中央の丸穴は、礫を詰めて路盤を補強した跡らしい。
東急に乗ろうとしたら相鉄が来た。12000系?カッコイイな!
東急多摩川駅から直ぐ。荏原古墳群の中の、多摩川台古墳群。古墳は散々見てきてもう飽きたと思っているが、つい来てしまう。現地に来ると、地理感覚が肌で理解出来るのだ。
多摩川沿いの丘陵地に連なって築造されていたこの古墳群の副葬品からは、上毛野国との強い結びつきが分かるとのこと。そりゃそうか。
亀甲山古墳。荏原古墳群最大の前方後円墳で4世紀後半らしい。後の小杵一族に連なる首長墓だろうか?
本日終了、古墳から望む武蔵小杉方面の夕暮れ。浸水したタワマンはあのどれかだろう。1ヶ月以上動けなかった鬱憤を晴らすように歩いたが、まだまだ足りない、とか調子に乗ってるとまたケガするんだろう。
























