現時点で思うこと。
母という人は、ひとりの大人としては幼すぎる。
大人になれないまま、年老いてしまった人なのだ。
(加齢のために、さらに退行も加わっているかもしれない)
だからそんな母に対して「普通の大人」の対応を求めることは
無駄なのである。
どんなに母と同世代の女性が自分の人生を楽しみ、
様々な経験に基づいて築き上げた豊かな人間性を発揮して
美しく輝いているのを目の当たりにしても、
母に同じようなことを求めてはいけない。
比較をしてはいけない。
母に対して批判的な気持ちが芽生えても、自分の中におさめ、受け流すこと。
母は、こういう人間なのだと認めること。諦めること。
もっと溌剌としてほしい。
もっと身ぎれいでいてほしい。
もっと人として強くあってほしい。
もっと他者に寛容であってほしい。
もっと家族と距離を取ってほしい。
もっと合理的なものの見方をしてほしい。
もっと自分を大切にしてほしい。
自分の人生から逃げないでほしい。
コミュニケーションのスキルを向上させてほしい。
母に求めたいことはいろいろある。
が、こうして「求める」ということ自体が、
私がありのままの母を認めていない証拠だ。
私の母は、子どもの心のまま老いてしまった人。
年を重ねるたびに、母の中に置き去りになっていた
子どもの心の叫び声は激しさを増している。
そして、もうこれ以上「大人」の仮面をつけて生きるのは
無理だと言っている。
本当は自分は幼い子どもなのだから、
もっと優しくしてくれ、甘やかしてくれ、
愛してくれと叫んでいる。
何故優しくしてもらえなかったの。
甘えさせてもらえなかったの。
愛してもらえなかったの。
そういう想いが、ものすごい「怒り」となって表出している。
それは、母が母の母(私の祖母)に向けるべき声なき声であって、
娘である私が浴びる筋合いのものではない。
私にできることは、
・母には期待しない
・母には求めない
そして、私自身が、母に「怒り」を持っていることに
きちんと気づくことが大切である。(別項にて整理)
でも、一つだけ母にはどうしても求めたいことがある。
病院に行くか、カウンセリングを受けるかしてほしい。
心の専門家の指示を仰いでほしい。
健康な心を持ちたいという気持ちすら失っている以上、
無理なことなのかもしれないけど。
母という人は、ひとりの大人としては幼すぎる。
大人になれないまま、年老いてしまった人なのだ。
(加齢のために、さらに退行も加わっているかもしれない)
だからそんな母に対して「普通の大人」の対応を求めることは
無駄なのである。
どんなに母と同世代の女性が自分の人生を楽しみ、
様々な経験に基づいて築き上げた豊かな人間性を発揮して
美しく輝いているのを目の当たりにしても、
母に同じようなことを求めてはいけない。
比較をしてはいけない。
母に対して批判的な気持ちが芽生えても、自分の中におさめ、受け流すこと。
母は、こういう人間なのだと認めること。諦めること。
もっと溌剌としてほしい。
もっと身ぎれいでいてほしい。
もっと人として強くあってほしい。
もっと他者に寛容であってほしい。
もっと家族と距離を取ってほしい。
もっと合理的なものの見方をしてほしい。
もっと自分を大切にしてほしい。
自分の人生から逃げないでほしい。
コミュニケーションのスキルを向上させてほしい。
母に求めたいことはいろいろある。
が、こうして「求める」ということ自体が、
私がありのままの母を認めていない証拠だ。
私の母は、子どもの心のまま老いてしまった人。
年を重ねるたびに、母の中に置き去りになっていた
子どもの心の叫び声は激しさを増している。
そして、もうこれ以上「大人」の仮面をつけて生きるのは
無理だと言っている。
本当は自分は幼い子どもなのだから、
もっと優しくしてくれ、甘やかしてくれ、
愛してくれと叫んでいる。
何故優しくしてもらえなかったの。
甘えさせてもらえなかったの。
愛してもらえなかったの。
そういう想いが、ものすごい「怒り」となって表出している。
それは、母が母の母(私の祖母)に向けるべき声なき声であって、
娘である私が浴びる筋合いのものではない。
私にできることは、
・母には期待しない
・母には求めない
そして、私自身が、母に「怒り」を持っていることに
きちんと気づくことが大切である。(別項にて整理)
でも、一つだけ母にはどうしても求めたいことがある。
病院に行くか、カウンセリングを受けるかしてほしい。
心の専門家の指示を仰いでほしい。
健康な心を持ちたいという気持ちすら失っている以上、
無理なことなのかもしれないけど。