イエス様と同じ心情でお父様の前に立たせてください。 | 楚と鶴

楚と鶴

「楚」とは北斜面(日が当たらない場所)で咲く棘のある花のことです。
文鮮明先生のすばらしいみ言葉を掲載していきます。

 お父様!四千年間苦労して導いてこられたイスラエルの終末をご覧になりながら、その民族に対して最低の口に出していえないほどの嘆息の言葉を語らなければならなかったイエス・キリストの心情が、どれほど気の毒で、恨めしく、悲しく、どれほど辛かったでしょうか?

 お父様!死亡線上であがいている数多くの国民を眺められるイエス様の心中には、勧告しても聞かず、諭してあげても悟ろうとしない無知な群れに対して、天の気の毒な心情を知りその御胸が痛まれたということを知っています。

 気の毒になればなるほど、地に対し、希望を抱きたい心も共に高まっていったことを私たちは知っています。
 しかし、この思いを押し殺して耐えられたキリストの心情を知る人は、地上に人っ子ひとりもいませんでした。

 孤独な路程を開拓するため、苦労されていたキリストの聖上なる姿を、兄のように、父のように侍りながら、キリストの心と一つになり、キリストが涙される立場にいるなら、一緒に涙し、飢える立場であったら、一緒に飢え、ぼろ絹をまとわれている立場にいるなら、一緒にぼろをまとい、むち打たれていらっしゃる立場にいるなら、一緒にむち打たれ、追われる立場にいらっしゃるなら、一緒に追われる立場に立つべきでしたが、そうできなかったのが歴史的な恨みであったことを私たちは知りました。



 心情の世界は、歴史的な距離を超越するという事実を私たちは知りました。
それゆえ私たちは今、心情を(統括)一つにすることができ、キリストの聖なる姿を抱き締め、彼の事情に通じることのできる心情の親友となって、イエス様を身代わりしてゲッセマネの園で祈ることができ、イエス様の代わりにカルバリ山頂に向かって走って駆けつけることができる、あなたの息子・娘たちとなるようにしてください。
    
楚と鶴  

       (左からヨセフ、エリザベツ、マリア、幼少のヨハネ、ザカリア、イエス様)

 そのような息子・娘であるとするなら、彼はキリストの(親)友であり、歴史を超えて天の息子に侍った者であるということを、私たちが体恤するようにしてくださいますことを、愛するお父様、懇切にお願い申し上げます。

 イエス様はこの地上に来て、数限りなく(수없이=数え切れないぐらいに)涙を流されましたが、誰もそれを知らず、血涙の出る哀痛の心情を持って天上に対して訴えましたが、それを知る者もいませんでした。お父様、今日統一の信徒たちをかわいそうな立場に追いやり、鍛えてくださったことに感謝を申し上げます。
 飢えの中で団結させてくださったことに感謝を申し上げます。お父様、ぼろをまといながらもみ旨を案じ、むち打たれながらもあなたを案ずる息子・娘となるようにしてください。

 これがお父様の願いであり、このような姿を立ててこの民族の前に誇ろうとなさるのが、お父様のみ旨であることを知るものでございます。
今、そのような姿を捜し立てる使命を果たす時が来ましたので、この使命の前に
私たちが卑屈にならないようにしてくださり、この使命の前にためらわないようにしてください。
 私たちにあるすべての情熱と誠心を尽くして、あなたの前に実績を残し、
あなたの心情に記憶され得る息子・娘となるようにしてくださいますことを懇切にお願い申し上げながら、主のみ名によってお祈り申し上げました。アーメン。
(一九六〇・七・一七)



編集後記

1.表現

日本語では「一つになる」という表現が「統括する」という意味が含まれているものであったり、「もどかしい。」という日本ではあまり使わないような表現を「気の毒」と心情的な言葉に変えました。

 文先生の表現は一言一言にかなりの含みを持たせた言葉が使われています。韓国語に忠実に訳したものです。

 「文先生の祈祷」という本が出版されており、私が購入した本は韓国語も掲載してありました。購入してから20年ぐらい経ってやっと、韓国語がわかるようになりました。



2.挿絵について

 場面は、ザカリヤ家庭を表現しています。

イエス様は「大工だった:」というのは大変有名な話です。

右側の壮年がザカリヤで棟梁です。

奥のほうの少しお年を召した夫人がエリザベツです。

左側で腰をかがめて忠実に働いているのが、ヨセフです。

  真ん中の服を着た子供に優しくしているのがマリアです。よくみるとザカリアもヨハネをかわいがるように手を差し伸べています。

やさしくされている、中央の子供が後に洗礼ヨハネとなる、ザカリアとエリザベツの息子で、ヨハネです。

 そして、右に服も着ず(着せられていない)、こじきのように古い皿を持たされているのが、イエス様です。

  マリアはイエス様は自分の息子だったのですが、冷たくしていました。自分の息子よりザカリアのこ、ヨハネをかわいがっていたのです。ザカリアに援助されていたからです。

イエス様は父親の愛情はもちろんのこと、生んでくれた母さえも愛情をまったく注いでくれなかった。メシアとしてこられているのに、愛情を受けらなかった。


3.統一教会の教え

 統一教会では「マリアは、心情的に完璧にイエス様の母親ではなかった。」としています。

 それは、やはり、人類始祖のアダムとエバの人生がが間違った愛からはじまったので、だれも「母親としてどうしなければならないのか?」とマリアに教えてくれなかったし、自分も理解しようとしなかった、という神様の大粒の涙を流される状況が延々と続いていた、という説明されています。

4.文先生とイエス様

 ということで、文先生の気持ちを表現された祈祷文を掲載しました。

 「イエス様の悲惨な心情の内容を、知って、いろいろな苦難に打ち勝ち、同じ気持ちになってあげることで、辛かったこころが開放される。晴れ晴れとした気持ちを回復させることができるから。」と語られ、文先生は私たちにイエス様のまったく理解されなかった心を伝えようとされました。


 これから、文先生が語られたイエス様の心情を精誠をこめて表現させていただきたいと思っています。



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