【作品情報】


ロベスピエールの半生をミュージカル化。「スカーレット・ピンパーネル」のフランク・ワイルドホーンが作曲した。



【あらすじ】


1793年1月18日、ルイ16世の処刑が可決され、民衆は革命家ロベスピエール(望海風斗)に熱狂していた。一方、貴族マリー=アンヌ(真彩希帆)は革命で家族と恋人を殺され、ロベスピエールを暗殺しようと近付く。だが、他の議員たちに絡まれているところをロベスピエールに助けられ、2人は惹かれ合ってしまうのだった。



【感想】


雪組新トップコンビの大劇場お披露目公演ですが、すでに3年目くらいの貫禄でした。公演も傑作というより名作と呼びたいような、生まれながらにしてクラシカルな風格をそなえた力作です。


タイトル発表時、希望コンビにぴったりと感じつつも、一瞬和モノと勘違いして「またか」と驚いてしまったのですが、よく見るとロベピが主人公ということでさらに驚きました。これから雪組を率いていくだいもんに、恐怖で人々を支配した指導者役を演らせるとは…。ロベピを主人公にすると、コミック「ベルサイユのばら」のように好青年としてだけ描くことはできません。しかも、「ドン・ジュアン」の生田大和先生作品です。


開演前、幕に一筋の光が浮かび上がっています。ひかりふる路を具現化したものかと思っていたら、ルイ16世の裁判シーンでギロチンであることがわかってゾッとしました。ひかりふる路を歩んでいたつもりがギロチンに向かっていたことに気付くロベピの絶望をまず観客に体験させる手法は、『ラ・ラ・ランド』の予告編と同じです。


『ラ・ラ・ランド』は予告編のロマンティックさが話題となり、公開週から大ヒットしました。しかし、本編を観てみると、予告編で話題となったロマンティックなシーンのほとんどは主人公たちの夢で、ストーリーは現実的なものです。夢のシーンで予告編を構成するのは禁じ手で、近年では『バットマン vs スーパーマン    ジャスティスの誕生』の予告編が批判されましたが、『ラ・ラ・ランド』のそれは絶賛されました。夢のような作品を観るために行った映画館で現実を見せられることで、夢を叶えようとやって来たロサンゼルスで現実に直面する主人公たちの失望を体験できるからです。


『ラ・ラ・ランド』は理想と現実というテーマや、主人公たちが違う形で出会っていればと夢見た後にそれぞれの路へ踏み出していくラストなど、本作に絶大な影響を与えています(併演「SUPER VOYAGER!」にも『ラ・ラ・ランド』をモチーフにしたシーンがありました)。


開演すると、ロラン夫人が「わたくし、もう我慢できませんわ」と言い放ちます。近年、役幅を広げ、「るろうに剣心」では斬新な武田観柳像を作り上げたしょうちゃんの女役ぶりがすばらしいです。個人としてのロラン夫人がわかるシーンがないのにも関わらず、政治という男社会で女性であることを武器に闘い抜いた彼女の信念がひしひしと伝わってきました。


ルイ16世の裁判シーン、処刑に反対するジロンド派の議員たちがルイ16世の罪状を問うと、若く美しいサン=ジュストが彗星のごとく現れて「(共和国となったフランスにおいて)国王であることこそが罪」と演説します。サン=ジュストの鮮烈な台頭と朝美絢さんの雪組大劇場デビューを重ねた華々しい登場シーンで、お歌がまた上達していました。ワイルドホーンさんの楽曲は相変わらずメロディアスでありながら歌詞の内容がはっきりと伝わってきて、サン=ジュストの演説やマリー=アンヌの過去もわかりやすいです。


ルイ16世がギロチンの露と消え、その代わりのようにロベピが登場して自由について演説します。だいもんの歌声が本当に好きでよく聴いているのにも関わらず、うますぎて驚きました。壮大な主題歌を完璧に歌いこなし、演技の一部にしています。民衆、特に女性を熱狂させたというロベピの演説がどのようなものであったのか伝わってきました。お衣装は有名な肖像画のもので、ジャコバン派の議員たちのお衣装には開演前の幕と同じく斜めのラインが入っています。


続いてそんなロベピへの恨みをマリー=アンヌが歌います。きぃちゃんはだいもんが作り上げた土台を信じ、演技に全力を注いでいる印象を受けました。終盤で「愛した人を殺すなんてできないわ」と歌い上げるところは、感情の爆発ぶりに圧倒されます。本作で唯一の架空の登場人物で、二刀流使いの暗殺者となった貴族令嬢という支離滅裂な役柄ですが、説得力を持たせていました。ツラのセンスも良く、当時の貴族女性の髪形は日本人がすると老けて見えてしまうのですが、絶妙なバランスでフランス娘らしく仕上げています。


酒場ではロベピやその親友ダントンらジャコバン派の議員たちが集まり、打ち上げをしていました。同じくロベピの親友でジャーナリストのデムーランに扮したのは、本作で退団したコマです。「1789」ではダントン役でしたが、本作では下級生のだいもんや咲ちゃんに囲まれていながら見事な弟キャラぶりでした。専科に異動する前はずっと雪組で弟キャラだったため、自然とこれまでのキャリアが思い出されるのもうれしいです。


そこにマリー=アンヌが現れ、ロベピと出会います。2人きりで夜道を歩くという絶好のチャンスに恵まれますが、彼の優しさに触れて暗殺できません。マリー=アンヌはロベピの人柄を知ってしまったため、愛と憎しみに引き裂かれることになります。個人としてのロベピを知らなければ、彼を革命そのものとしてただ憎むことができました。このように本作では知ることの苦しみが一貫して描かれています。


一方、ロベピはギロチンに続く道をひかりふる路と信じているように、マリー=アンヌの瞳にギラつく殺意を希望の光と感じていました。ここで2人の背後をカナリア売りが通ります。カナリアはロベピが長年飼っていたものの最期まで懐かせられなかった鳥で、思い通りにならない運命を感じさせられました。


やがて、マリー=アンヌは子どものいないデムーラン家に身を寄せますが、ロベピはサン=ジュストに扇動されて粛清を進めます。彼のロベピへの想いは友情ではなく信奉なので、ロベピの愛する人を排除することで彼を独占しようとするのです。ダントンもその餌食となり、国王処刑に反対するイングランドとの同盟を保とうと100万リーヴルを国庫から持ち出していたことを告発されて追放に。しかし、歯止めがきかなくなったロベピと話し合うため、デムーランに呼び戻されます。


ダントンはロベピ自身が喜びを知るべきと主張しますが、彼は民衆が苦しんでいるからと拒絶。私事ですが、わたしは病気の両親を看護しています。「遊びたい盛りなのにがんばるね」と励ましてくださる方が大半ですが、「両親が闘病しているのに宝塚を観るなんて」と言われることもあります。しかし、わたしが捨てた喜びが、両親に届くことはありません。わたしは宝塚を楽しみ続けると決心していますが、それでも「両親が闘病しているのに」と言われると苦しく、ロベピの気持ちもわかるため、辛いシーンでした。


また、ダントンはロベピが現実も知るべきと主張しますが、彼は知ることの苦しみから逃げます。ダントンはギロチンへの道すがらロベピの家の前で「次はお前の番だ!」と叫んだそうですが、本作では「先に行って待ってるからな」と微笑んでいました。ロラン夫人が執行人の手を誇り高く振り払って自ら処刑台に乗るのは、処刑の恐怖による支配を描いた小説「緋文字」のヒロインと同じです。


ロベピは粛清を進め、恐怖政治を始めます。過ちを認めれば、親友の死がムダになってしまうからです。未来のために始めた革命が、過去を正当化するためのものになっていきます。そうして知ることの苦しみから逃げ続けたロベピは、過酷な現実を知ることとなります。それは、愛する人が自分に殺意を持っているというものでした。彼は過ちを認め、すべてを終わらせます。


ロベピはカリスマ性があったためにまつり上げられただけで独裁者ではなかったというのは史実だそうですが、わたしは本作を観るまで知りませんでした。そのような人物が正当な裁判も受けられずに処刑されたという事実は認め難いからでしょう、ロベピは「スカーレット・ピンパーネル」や「1789」など多くのフィクションで独裁者として描かれています。しかし、知ることの苦しみから逃げたり過ちを認めなかったりすればどのようになるかは、本作で描かれた通りです。