甲府市から笛吹市に向かいました。目的地は、信玄餅の工場です。

信玄餅は、山梨県の土産で、甲府の帰りに何回も買っています。

また、山梨県以外でも、売られています。

工場見学をしました。最後の袋詰めには、多くの人が従事されて

います。人件費が相当かかっていると思いました。

高い理由でもあるかと納得しました。

あと、旅行ガイドに紹介されていた信玄餅の詰め放題は、

朝7:45に、整理券の配布を終了したとのこと。

一個220円ほどで売っているものが、詰め放題は、一回

220円とか、袋には、5-6個は、詰められるので、たいへん

お得です。

もう10年以上前ですが、甲府に来た時に、食べた「ほうとう」、

甲府の会社の皆様と初めて、「小作」につれて行ってもらい注文したのが

ほうとうで、ネギトロ丼のセットを注文しました。甲府のメンバーは、

すこしびっくりした感じでしたが、その理由は、ほうとうの量、

鍋のほうとうを食べて、ネギトロ丼も残しませんでしたが、もうお腹は

パンパンでした。

ということで、今回は、二人で、「かぼちゃほうとう」をひとつだけ

注文しました。二人でも十分な量でした。(最初に食べた時から

年を取ってしまった。)

みそ味のきしめんというかうどんとかぼちゃ、サトイモ、ネギ・ごぼうなど

野菜いっぱいの鍋です。

 

ほうとう 山梨県 | うちの郷土料理:農林水産省

 

「ほうとう」とは小麦粉を練り、平らに切った「ほうとうめん」を、たっぷりの具材とともに味噌仕立ての汁で煮こんだもので、「うまいもんだよかぼちゃのほうとう」といわれるほど、誰もが知る山梨県の代表的な郷土料理である。峡南地域では「のしいれ」「のしこみ」とも呼ばれている。稲作が適さない山間で、米に代わる主食として古くから親しまれてきた。そのため、「ほうとうめん」を打つことは、嫁入り修行ともされていた。めんの製造時に塩を混ぜないので、あらかじめゆでて塩分を抜く必要がない。つくる手間がかからず野菜や肉とも相性が良く、栄養価も高い。「ほうとう」は「餺飥」の呼び名で、平安時代から貴族が儀式等で食べていたことが知られている。

甲府城跡には、仕事で、何回も東京から甲府に通っていたので、甲府駅に隣接しているというか、甲府城の

構内に、甲府駅が出来たという感じになります。南側に富士山をかかえて、本丸石垣が残っています。

稲荷櫓には、甲府城の模型が置かれています。

お城スタンプもありました。

甲府市/甲府城跡

現在、甲府城跡は舞鶴城公園として親しまれています。
築城以前は一条小山と呼ばれ、武田氏の築いた砦(とりで)や一蓮寺がありました。
甲府城は、戦国時代の終わりに豊臣秀吉の家臣らによって、甲斐を治める新たな拠点として築城されました。
築城当時、豊臣氏に次ぐ勢力を誇っていた徳川家康が関東に入ったため、秀吉は家康を封じ込め、監視するために領国の境界に位置する甲斐国に甲府城を築いたと考えられています。そのため、秀吉の腹心だった加藤氏や浅野氏が城主となり、浅野氏の時代に精力的に築城されたことが発掘調査によって出土した瓦の家紋から明らかになりました。その後、徳川家康の子義直、秀忠の子忠長などの城主を経て、宝永年間(1704~1711)には柳沢吉保が城主となり、城の修築工事や城下町の整備などを行い、甲斐国は大きく発展しました。
しかし、吉保の子吉里が大和郡山城主として転封された後、甲斐国は幕府の直轄地となり、甲府勤番の支配下におかれ、その間の享保12年(1727)の大火により本丸などにあった主な建物を焼失しました。
甲府城の規模は、現在の舞鶴城公園程度と思われがちですが、県庁南のスクランブル交差点が当時の正面玄関(追手門)、甲府駅北側に復元された山手御門(やまのてごもん)が北の玄関口、さらにその外側には二の堀・三の堀が開削され、城跡を中心に19haもの土地が城内に取り込まれていました。
現在も高い石垣が随所に見られますが、これらの石材は城跡北東に位置する愛宕山から多く運び込まれたと考えられています。建設機械のない時代に巨石を運ぶだけでも大変なことですが、高い場所まで持ち上げ、石を積み上げることは至難の業だったと想像されます。

要害山から下り、武田神社・武田氏館跡に来ました。「躑躅が崎館」(つつじがさきのやかた)です。

武田氏三代の城です。城としては、平城で、広い敷地です。武田神社では、無事故無災害・交通安全などを

祈願してきました。

 

北側の虎口

東側の大手

 

甲府市/武田氏館跡

国史跡である武田氏館跡は、永正16年(1519)に武田信虎が築いた武田氏の本拠で、一般には「躑躅が崎館」(つつじがさきのやかた)の呼び名で親しまれています。大正8年(1919)に武田神社が創建された場所は、信虎、信玄、勝頼の武田氏三代が居住し、政務を執り行った館の中心でした。
その西隣には天文20年(1551)に信玄の嫡男である義信の館として築かれた西曲輪があり、北側には食糧庫とされる味噌曲輪や大井夫人の隠居所と伝わる御隠居曲輪などの関連施設があり、それらは館の中心を囲むように並んでいます。
武田氏館は、勝頼が新府城へ移転する際に一時破却されましたが、武田氏滅亡後に甲斐国の統治拠点として織田・徳川・豊臣氏の家臣団によって再利用されました。
天守台の高石垣などは、その時代に築かれた構造物であるため、甲府城築城が一応の完成を見るまで使用されたと考えられます。

山梨県の城巡り 新府城跡の次は、要害山城跡です。甲府駅北口から北に向かい、武田神社を超えて

山に向かって上ります。右側に6-7台の駐車スペースがあります。

 

途上口には、案内板・熊鈴のついた

杖もありました。要害山には、本格的な山登りの準備が必要とのことでもあり、入口までで、写真撮影

して、武田神社に下りました。

 

 

甲府市/要害山(ようがいさん)

武田信虎は、永正16年(1519)、躑躅が崎の地に館を築いて新たな本拠としました(武田氏館跡)。翌永正17年(1520)、緊急時に避難のために立てこもる詰城(つめじろ)として、背後の丸山に要害城を築きます。若くして家督を継いだ信虎は、甲斐国内で反乱を起こした油川氏や小山田氏らの武将を次々と平定し家臣化しました。そして武田氏館の周辺に集住させ、さらに商職人を住まわせて、館を中心とした城下町である甲斐国の府中=甲府を開創しました。
 大永元年(1521)、駿河勢が大挙して富士川をさかのぼって甲府盆地に攻め入ってきたとき、懐妊中だった大井夫人は要害城に避難し、後の信玄を出産しました(一説には山裾の積翠寺)。
 城には山腹から主郭に至る通路に沿って枡形虎口(ますがたこぐち=出入口)に伴う門と郭(くるわ)が複雑かつ連続して付設されています。竪堀(たてぼり)や堀切(ほりきり)を要所に設けて防御を固めている様子は、戦国時代の緊迫した状況を今に伝えています。平坦にならされた山頂の主郭は東西約73m、南北約22mの広さがあり、土塁で囲まれていて、庭園の存在をうかがわせる大石も存在します。信虎・信玄・勝頼の三代にわたって使用され、勝頼が新府城(韮崎市)へ移るまでの62年間、武田氏館跡とともに武田氏の領国支配の本拠地となった山城です。城内には「諏訪水」と呼ばれる今でも水をたたえる井戸や武田不動尊の石像、東郷平八郎の書による「武田信玄公誕生之地」の石碑などもあります。

城巡り 山梨県に行きました。少し遠いところになります。

まずは、新府城跡です。中央道 須玉インターで降りて、城跡をめざしました。

西側は、七里岩の絶壁で守られています。県道17号の脇に車を止めて、

急な石段を登って、藤武神社、本丸に着きました。

本丸は、90×150メートルほどの曲輪です。

西側には、二の丸、南に下れば、三の丸

 

 

北側の駐車場から西側に歩けば、東出構・西出構、乾門桝形虎口が残って

います。

 

新府城跡/韮崎市

新府城は、天正9年(1581)に武田勝頼によって築城されました。城は未完成でしたが、同年の9月頃には友好諸国に築城が報じられ、12月24日に躑躅ケ崎館(武田氏館跡 山梨県甲府市)からの移転が行われました。しかし、天正10年3月3日、勝頼は織田軍侵攻を目前にして自ら城に火を放ち退去し、3月11日に田野(山梨県甲州市大和町)において、夫人と息子信勝ともに自害し、武田氏は滅亡してしまいます。
 その後、同年に徳川氏と北条氏による甲斐国争奪をめぐる天正壬午の戦いがおこり、徳川家康は新府城を本陣として再利用しました。
 新府城が立地する七里岩は、八ヶ岳の山体崩壊にともなう岩屑流が、西と東側を流れる釜無川と塩川の侵食によって形成された台地で、西側の断崖絶壁は韮崎から長野県の蔦木(諏訪郡富士見町)まで約30キロメートル続き、奇観を呈しています。
 台地上には、100を超す「流れ山」と呼ばれる小高い丘・小山があり、新府城は七里岩台地南端の標高約524メートルの「西ノ森」と呼ばれた小山に築かれ、西側は釜無川をのぞむ急崖となっています。
 城は土の切り盛りによって造成が行われ、山頂の本丸を中心に、西に二の丸、南に西三の丸・東三の丸の大きな郭が配され、北から東にかけての山裾には堀と土塁で防御された帯郭がめぐり、南端には大手桝形・丸馬出・三日月堀、北西端には搦手があり、全山にわたって諸施設が配置されています。
 搦手の郭は東西100メートル、南北25メートルの東西方向に細長い長方形をしており、北側には水堀と土塁、東から南側にかけては空堀、西側は比高差90メートル程の七里岩の断崖となっています。
 城の北西隅につくられている乾門は、西側が七里岩の崖、東側が水堀でこの間を土橋でわたる構造で、大手と同様に内側が大きく、外側が小さい土塁によって囲まれたやや変則的な形の桝形虎口で、桝形内部空間は東西約13メートル、南北約12メートルの広さがあり、外側門(一の門)は北西角、内側門(二の門)は南東隅寄りに設けられています。

アマチュア無線用の50MHz 5エレメントを回転させていたアンテナローテーターを分解しました。

設置した当初は、回転させていたのですが、いつしか回転方向の指針が動かなくなり、回転させ

ることもなく時間が過ぎていきました。

先日 二階の屋根からローテーターを下していたので、分解しました。

ベアリングは、グリスが固まっていたり、固着していました。

分解して、清掃しました。

清掃したベアリングを新しいグリスを塗って、取り付けました。

 

組み立て後、回転試験を行って、モーターは動いて、360度回転することを確認しました。

指針は動きませんでした。

 

片道18キロの目的地についたら、忘れ物したことに気がつきました。

仕方なく日を変えるというのもありましたが、自宅に戻り、忘れ物を

もって、目的地に行きました。

今日は、片道18キロを二回往復してしまいました。

台所に置いている消火器 ABC 10型は、購入が2004年で、経年21年も経過しています。

ということで、新しい同じタイプの消火器に交換しました。

古い消火器は、購入したところで無料で引き取ってもらえました。