城巡り 小牧山城跡へ向かいました。

・南側の土塁です。

・大手道

頂上にある模擬天守 小牧山歴史館

東南側にある小牧山城史跡情報館

城巡りは、国宝犬山城でした。犬山城第一駐車場に停めて、登城です。

お城の模型は、犬山市文化資料館にあります。

八幡山城跡の近くまで行ってみました。砂防ダムの脇を登っていくとあるようです。

時間の関係で、山城あたりを遠望のみとしました。

 

 

第48回 細川氏と八幡山城跡 - 宮津市ホームページ

 

細川氏と八幡山城跡
 現在の宮津市街地は、丹後の重要な近世城下町です。その成立には細川藤孝・忠興の丹後入りが大きな意味をもち、天正七年(一五七九)に明智光秀らが「丹後へ出勢」したという記事がみられます(『信長公記』)。細川氏が織田信長の意向を受け丹後入りした点、明智光秀と行動をともにした点が注目され、最初の居城として八幡山城跡が候補地となっています。
ところで中世の山城は、山の尾根を平坦に削って曲輪(建物を築いたり兵が駐屯する)をつくったり、堀切や土塁をつくって防御性を高めた「土の城」でした。丹後では約五〇〇ヶ所の「土の城」が確認されています。
 これに対し、織田信長は瓦を葺いた天守閣や石垣をつくり、日本の城つくりに革新を起こしました。こうした特徴をもつ城は、安土城(滋賀県)を典型とし、織田信長や家臣の羽柴(のちの豊臣)秀吉により盛んに築かれたことから、「織豊系城郭」と呼ばれています。
八幡山城跡は、全長約五〇〇メートルの範囲に曲輪が連続的に配置され、中世の山城の伝統が色濃く認められます。しかし、山頂の主郭には石垣が残されており、丹後では他に例のない「織豊系城郭」と評価されています。こうしたあり方は、細川氏が信長や明智光秀の力を背景として丹後に進出した状況を反映し、細川氏と八幡山城跡の関係をよく物語っています。
 八幡山城跡に登ると、眼下に天橋立や宮津市街地から上宮津を一望することができ、この城の軍事的な重要性を実感することができます。

 

大久保会館から西側の山が、大久保山城があったところとか。

 

大久保(宮津市)

《大久保の概要》

市街地の西南部の丘陵状に突出する大久保山(大窪山35m)東麓に南北に300mほど連なる裏通り。
大久保は、江戸期~明治22年の地名で、町家地と武家地からなる。町家地は宮津城下職人町組の1町。町筋は京街道に西接して南北に長く延びていた。慶長7年「宮津下村検地帳」に「大くぼ」。元禄16年の御城下絵図に町筋は45間、宝暦年間は南北51間、道幅1間。家数は寛文6年40軒、宝暦年間4軒、明治維新前47軒、明治19年42軒、同21年37戸。明治22年宮津町の大字となる。
大久

《主な社寺など》
大久保稲荷社は、大字宮本にそのもとの稲荷社と称する祠がある。元々は伊根町菅野の風車のある太鼓山にあったものを細川忠興が勧請したという。
大久保山は丹後守護一色氏家臣野村氏の居城と伝える、本丸は上水道揚水設備のために、そのほかは近世以来の海岸埋め立てなどによって削りとられ、ほとんど中世山城の遺構をとどめていない。保は、明治22年~現在の大字名。はじめ宮津町、昭和29年からは宮津市の大字。

その後は細川忠興がこの城にいたという。ガラシャ夫人もここにいたことであろう。一色義有が細川父子に謀殺されたのもこの城であろうか(説はいろいろある)。
大久保山頂上は削平されて桜山公園になり、本荘神社がある。

 

宮津城跡へ向かいました。お城の門が、宮津小学校の門に移築されているということで

行ったみました。ナビは、宮津小学校です。学校に立派な門でした。

 

 

細川藤孝と明智光秀が築城!幻の海城「宮津城」の知られざる歴史とは - 宮津市ホームページ

宮津市役所周辺に宮津城があったことはご存知でしょうか。戦国時代から明治まで約300年に渡り宮津のシンボルだった今はなき宮津城(写真は明治4年〈1871〉頃撮影)。今回は、初代城主の細川藤孝(当時は長岡藤孝)が丹後に移封してから九州で大名になるまで、知られざる宮津城の歴史ストーリーにフォーカス。近年の最新研究も交えてご紹介します!
信長から丹後を拝領した藤孝が最初に入ったのが、八幡山城とされています。宮津城が出来るまでの間、藤孝や忠興、玉子(ガラシャ)もこちらで暮らしていたことが想像されます。

信長から丹後を拝領した藤孝は宮津に居城を築きます。このことで古代以来丹後の中心地が、府中から宮津に移動したこととなりました。これは丹後にとって大きな転換期となり、近世都市宮津へと通じる出発点が細川時代の宮津城でした。
宮津城は、当時最先端の技術を駆使して造られおり、築城には忠興の妻・玉子の父であり城作りの名人と言われた明智光秀も深く関わっていたことがうかがえる資料も残っています。
天正8年(1580)8月21日付長岡藤孝宛の織田信長黒印状(上の写真)には「光秀とよく相談して丈夫に造るように」と信長からの指示が書かれています。
「光秀は琵琶湖に面した大溝城・坂本城の縄張(城の全体設計のこと)の経験があること、水軍を持っていたこと、信長の右腕でもあったことから今後の中国地方攻めにあたって対毛利氏の戦略も熟知していたことなどを考えると、海城にすること含めて、宮津城の選地と縄張に光秀が深く関わり、主導権を握っていたのではないか」と森島さんは考えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シルバーウイークの祝日の最後の日、ムーブLA100Fの点火プラグを

点検しました。アクセルを踏んでもレスポンスが悪く加速しません。

約10万キロ走行で、点火プラグを交換してから約2万キロ走っています。

エンジンの写真                     イグニッションコイル

 

点火プラグの点検結果は、焼け具合には、問題はありません。ギャップは、1.0ミリぐらいに少し広がって

いたので、0.8ミリに調整しました。

清掃後のエンジンは、なんとなく善くなったですが、あまり変わりません。

イグニッションコイルを取り換えてみようかと思います。

 

イグニッションコイル 3本セット 19500-B2050 19500-B2051  ダイハツ タント 点火コイル 互換品 アマゾン 中国製 6299円---

 

城巡りは、賤ケ岳砦跡です。リフトで向かいます。往復1100円

 

視界は、木之本から伊吹山方面

城跡です。

琵琶湖の北湖 竹生島が見えます。

余呉湖方面 北側

 

前田利家がかってに戦線を離脱していなかったら柴田勝家は、玄蕃が飛び出していても、

勝っていたかも。

 

シルバーウィークの初日 越前武生駅の近くの楽市楽座 武生でのランチタイムしました。

楽市二階の「ろくべえ」です。越前そばのセットを注文しました。

 

  

 

  

おろしそばとソースかつ丼                  おろしそばとボルガライス

 

セット品は、小鉢・サラダがついてきますが、単品メニューとは、すこし小もりとこと。

 

九月に入ってから雨が降り続いています。車庫の奥に、生えてきたキノコ 「毒キノコ」と

思われましたので、撤去して燃えるゴミに出しました。