彼の代名詞ともいえるエレキテル。このことは少しあとに述べるとして、あまり知られてない波瀾万丈にして数奇な生き様を書いてみます。

 

生没年は、1728年(享保13年)に生まれ、没年1780年(安永8年1月24日)、52歳の生涯でした。
また、この江戸中期には、杉田玄白(すぎたげんぱく)、蕪村(ぶそん)、本居宣長(もとおり のりなが)などがおります。

 

生誕地は、現在の香川県さぬき市志度。
家は高松藩の足軽身分で、白石家の三男として生まれる。兄弟は「多数」、という。このことからも、昔のこととはいえ実に型破りであることが推察できる。

 

源内は12歳の時「お神酒天神」という、掛け軸の天神様のほっぺを丸くくり抜き、掛け軸の裏側に肌色と赤色の紙を細い糸で吊し、徳利を天神様に供えると赤い紙が上昇し天神様の頬が赤くなりいかにもお神酒を飲んだような仕掛けを作った。このことがスッカリ評判となり、間もなく藩医の元で本草学、儒学と俳句の勉強を始めた。天才が勉強をすると恐ろしいほどの成長することを証明した。

 

その後の仕事は多岐にわたり、本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家、と正に飛ぶ鳥を落とすスゴさです。
源内の発明品を列挙すると、火浣布(かかんぷ、石綿耐火布)、寒暖計、エレキテル(摩擦起電器)、鉱山を開発するなどなど。

 

名前も仕事の種類毎に使い、その数はここでは省略しますが、およそ10数種類になります。
面白いのをひとつ。生活に窮して細工物を作り売りした頃には貧家銭内(ひんか ぜにない)と名のっています。チョット吹き出しそうになります。

 

 

これが、源内が制作したと言われるエレキテル。その働きは静電気の発生装置という。

 

 

 

♯平賀源内作のエレキテル(複製)。国立科学博物館の展示♯
♯ほぼ同じ物が香川県さぬき市、平賀源内遺品館にも展示されている♯

 

エレキテルは厳密には、源内の発明ではなく、オランダから幕府への献上品を修繕をしていたがその仕組みに大変興味を持ち、取扱説明書がないにも関わらず、約7年もかかって画像の作品を作ったと言われている。
修繕で製品の仕組みを知り、新たに作り出すということは、昔からあってオルガンの修理をした山葉寅楠(やまは とらくす)は、その後ピアノを作り「ヤマハ楽器」を創業したことと同じです。

 

どのようにしてエレキテルが動くかと言いますと、中央に立っているハンドルを回すと内部のガラスが摩擦され、電気が銅線を伝って放電する、という仕組みです。
ただ、電気に関する研究は明治以降まで日の目を見ることはなかった。
このようなことも「早すぎた天才」「悲劇の発明王」といわれる所以かも知れません。

 

地質学者としての源内は、久保田藩(現在の秋田県)城主から招かれ、藩内の鉱山を調査し、掘削の技術指導をしたといいます。

 

その折、久保田藩の画家、小田野直武(おだのなおたけ)に「お供え餅を真上から書いて見よ」といい、見事に書き上げた直武の才能に驚き、その後西洋画の手法を指導したという。

 

下の絵は、不忍池を背景にした小田野直武の代表作の一つで、秋田県立近代美術館に収蔵されている。

 

夏頃に「杉田玄白」「解体新書」を書きますが、解体新書の画を描いたのが直武で、その後、秋田蘭画の技法を確立した。

 

 

 

 

さらに源内は、幅1㍍、長さ3㍍から12㍍の熱気球の原理の紙風船を上空に揚げることをアドバイスしたといいます。
今年も秋田県仙北市西木町上桧木内(かみひのきない)の小正月行事として、「大雨復興」「家内安全」など、武者絵や美人画が描かれた100個あまりの灯火をつけた巨大な紙風船が、きらめく星々のごとく真冬の夜空に舞う小正月事が行われました。
およそ290年の時を経て、源内も微笑みながら見ていたと思います。

 

 

 

 

硬く長いブログにお付き合いさせてしまい恐縮です。実は、続きがありまして2月28日にアップします。
軽くスルーして構いませんので、どうぞお心遣いしないでください。

 

皆様、お元気で。
では、また書きます。

 

画像はネットからの借用です。

 

 

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