だいぶ長いので、スルーしても全く気にもしませんので、どうぞご自由に。
華叟宗曇(かそうそうどん)和尚に弟子入りが認められた宗純。それは、1415(応永22)年、宗純22歳のときでした。
出世を嫌う華叟宗曇は、堅田に禅興庵(ぜんこうあん)という小さな寺を建て、そこで厳しい苦行をしていました。
禅興庵は、それはそれは貧乏で布団さえも無く、夜は沼に繋がれた船でむしろを被って眠る宗純。
托鉢だけでは生活ができず、禅興庵の和尚達は、内職で匂い袋を作って、その日の糧を得ていたのでした。
謙翁和尚の元での貧乏に慣れている宗純も、この寺はさすがと一目も二目も置くのでした。
禅興庵での生活が数年過ぎたが、宗純は、少しもくじけることなく充実した心で修行に励むのでした。
一方で重い税に苦しむ民衆と、幕府に追われ四面楚歌の母を救うことができないない己の未熟さに、苦しみ悩む日々は心を重くするものでした。
そのような宗純は、いつものように沼に浮かぶ小舟でウトウトしていたとき、昇る朝日とカラスの鳴き声で目覚めた。その瞬間、見聞したことのない別世界に一歩踏み、大きな悟りを得たのです。
(ご存じと思いますが、これが有名な、カラスの鳴き声で悟ったという話です)
それは宗純26歳のことです。
「ようやく悟ったな。では、これを授けよう」と、華叟和尚は認可証を渡すのですが、宗純は「私は、そのような紙切、出世の為に修行したのではありません」と、ポイと捨てました。
「何と勿体ない、宗純、認可証があれば寺は開けるし、生活は安定するぞ」と、禅興庵の和尚達は言うのですが、ただ笑い飛ばす宗純。
華叟和尚は、「宗純、大きな悟りを得たな。では、其方に道号を授けよう、一休としよう」
「ありがたく、名乗らせていただきます」と、名を一休宗純と改めたのです。
(ここに『一休さん』が誕生しました)
間もなく一休宗純は、禅興庵を後にして苦しむ人々の中に入ってゆき、母には仏典を平かなで書いて教えたのです。
方々の町で仏の教えを説いて回り、たちまち人々は一休宗純の元を訪ねました。その中には、民衆・武士・絵師・茶道・能楽の人もいました(歴史上著名な人もおりますが、ここでは省略します。Web等を参照にしてください)。
しかし、税の取り立てはますます厳しくなり、方々で一揆が起きるようになったのです。
乱れた世の中で、一休宗純は蓮如(れんにょ。本願寺住職)とともに炊き出しをして、民衆を励ましたのでした。
(どうして税の取り立てが、厳しかったかと言いますと、足利義満は、金閣寺。その孫、義政は銀閣寺を建てました。そういったことも厳しい税の取り立てにあるのです)
ある時、ふと目にした「どくろ」。やがて人はこうなる、と墓場の「どくろ」を杖に差し、「ご用心、ご用心」と街を歩いた。正月の松飾りの何処が目出度い、あの世への一里塚ではないか、と人々を諭すのでした。
そのころ、一休宗純は山城(現在の京都府)の国、薪村(たきぎむら)に酬恩庵(しゅうおんあん)という小さな寺を建てたのです。
(薪能は、この村名が由来です)
それから数年後に、将軍職をめぐって激しい戦が始まりました。これが応仁の乱で、やがて戦国時代へと続くのです。
年取ってからの一休宗純は、森女(しんじょ)という、目が不自由な女性と仲睦まじく暮らし、誰はばかることなく森女を愛したのです。
やがて一休宗純は、森女に見守られ、87歳の生涯を酬恩庵で終えたのです。
それは1481(文明13)年11月21日のことです。
(当時の平均寿命が30歳~40歳ですから、87歳は大変な長寿と思います。厳しい修行を積んだ末に心の自由を得た一休宗純。その生涯は幸せだった思います)
最後に一休宗純が死の直前に詠んだ詩。
濛々として三十年
淡々として三十年
濛々淡々として六十年
末期の糞をさらして梵天に捧ぐ
借用申す昨月昨日(さくげつさくじつ)、返済申す今月今日(こんげつこんにち)
借りおきし五つのものを四つかへし
本来、空にいまぞもとづく
と、歌いました。命はちょっとの間、借りたもの。人の体を作っているのは、五つの要素なり。地(ち)・水(すい)火(か)風(ふう)空(くう)。四つ返せば、ただ空だけが残る。
という意味です。
一休、そのものを表しています。
長い記事にお付き合いいただき、ありがとうございます。
一休さんは、どのようにして通ったのでしょう。真ん中にガードがあるのに・・・
拙著です。
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