その後、益々修行に励む周建。

 

また一方で、詩作の勉強をし、14歳の時「春衣宿花(しゅんえしゅくか)」は、京の街で大評判となったのです。それは、サクラ咲く美しい自然を表したものでした(ここでは原文を省略します。Web等でお読みください)。一休がその生涯で創った漢詩が収められた「狂雲集(きょううんしゅう)」にも載っております。正に天才、一休を示したものです。

 

一方で、仏教は乱れ民衆を救うことより、家柄や金品に執着し、自らの栄達しか考えない僧が殆どでした。
天皇の子どもである周建は、自ら望めば立身出世は思うがままです。しかし、出世を望まない周建は、厳しい税の取り立てに苦しむ民衆。そして、彼らを救うことができない己の無力さを感ずるのでした。

 

そんな、周建は西金寺(さいこんじ。現在の大津市堅田(かただ))の住職謙翁宗為(けんおんそうい)和尚に弟子入りを懇願するのでした。しかし、立派な寺を構えることを嫌い、檀家も弟子も取らず自給自足の謙翁は周建を受け付けませんでした。
それでも、一歩も引かず弟子入りを熱望する周建を、とうとう受け入れることとなったのです。
そして、周建は宗為の一字を貰い宗純(そうじゅん)と名を改めたのです。それは十六歳のときでした。

 

謙翁は、畑を耕し托鉢にくれる日々であった。そのような謙翁に宗純もひたすら従いました。
そして、二人は托鉢の食べ物を貧しい人々に分け与え、宗純は貧しいながらも心満たされる毎日を過ごすのでした。

 

謙翁のもとでの修行も四年の月日が過ぎたある日。謙翁は重い病に倒れてしまいます。
謙翁は病床にあっても、「今日は何もできなかった。だから何も食べない」。宗純の「このままでは死んでしまいます」「これも定めじゃ」と説得を全く受け付けませんでした。
宗純の必死の看病も空しく、謙翁は死んでしまいました。

 

師を失った宗純は、何も手につかず方々をうろつき、民衆からは気持ち悪いと疎まれるのでした。あー、このまま死んだらどんなに楽だろう、と琵琶湖に入水をはかったのです。
その死の間際、「死んではいけません。生きて多くの人々を救うのです」と、朦朧とした意識の中で諭す母の声を聞き、我に返った宗純。……今の母は幻だったのか……

 

死の一歩手前から生き返った宗純は、その足で、母のもとに帰ったのです。
それは五歳のとき別れてから、実に十六年ぶりの再会であった。

 

暫く母の家で過ごし、母と同じように慕っていた乳母玉江(たまえ)とも再会を果たし、つかの間の安息に浸る宗純。
母に、「これからどうしますか?」と尋ねられると、「堅田の華叟(かそう)和尚に弟子入りをする」と告げるのでした。
最も厳しい修行をする華叟和尚。そこで出直しを計るという宗純。

 

「弟子にお加え下さい」と願う宗純を、華叟和尚は全く受け付けませんでした。
ならばと門前に座り込む宗純。
あの男に水をかけよ、と言う華叟和尚。強風であっても雨に濡れてもびくともせず、夜は沼に繋がれた船でむしろを被って眠り、そして、朝から門前に座り込む宗純を、
「あやつ、見込みがあるようだ、あの男を中に入れよ」と、弟子入りを認める華叟和尚。

 

 

お知らせ。「一休さん」。2回で終了の予定でしたが、書き足しているうちに長くなり、後1回追加します。勝手な言い分、ご了承下さい。  4月23日。
                                                                            つづく

 

 

一休さんが詠んだ詩を一つ、
生まれては しぬるなりけり おしなべて
   釈迦も達磨も 猫も杓子も

 

どんなに偉い人も猫も杓子も生まれたものは、みな死ぬのです。と、本当の教えを『とんち』によって教えたのです。

 

 上記の詩は、一休さんの素顔の一端を示しています。

 

コーヒーでなく、水仙でひと休みを。