とんち話で知られる「一休さん」。
「この橋を渡らないように……」「生きているごとくの屏風のトラを捕らえてみよ……」等、ご存じの逸話が数多くあります。

 

でも、一休さんの生涯は、殆ど知られてません。そこで、素顔をチョッと書いて見ます。

 

足利尊氏(あしかがたかうじ)が京に幕府を開いた頃、尊氏は北朝側の光明天皇(こうみょうてんのう)をたて、南朝の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)側と激しい権力闘争をしました。これが世にいう南北朝の戦いで、約50年間続きました。
やがて南朝の力が弱まり、三代目足利義満(よしみつ)の時代に、南朝は北朝の後小松天皇(ごこまつてんのう)に皇位を譲りました。1392年のことです。

 

戦も一段落した頃、後小松天皇は伊予(いよ)の局(つぼね)を愛し、いつも側に置いていました。
しかし、伊予の局は南朝の重臣藤原氏の娘だから、後小松天皇の命を狙っていると家臣の厳しい忠告があり、伊予の局を宮中から追い出すようにと進言があったのです。
そして、とうとう家臣に押し切られ、伊予の局を追放してしまうのです。

 

こうして、侍女玉江(たまえ)一人を連れ、都をはなれ隠れ住むことになった伊予の局。しかし、お腹の中には子どもが宿っていました。

 

そして、1394四(応永元)年1月1日。元気な男の子が誕生しました。この子こそが後の一休さんなのです。

ですから、一休さんは天皇の子なんです。

 

幸せな伊予の局。千菊丸(一休さんの幼名)は、母の愛に包まれ元気に成長しました。
闊達で利発な千菊丸は、いつの日か幕府に弓を引くだろうと、将軍は千菊丸を出家させるようにと厳命したのです。
(このようなことは、よくあることで時代は異なりますが、源義経(みなもとのよしつね)は、鞍馬寺(くらまでら)に出家させられましたね)。

 

殺されたって寺には行かないと抵抗する千菊丸。しかし、千菊丸がもし殺されたら母はもう生きては行けないと諭され、寺に入ることを決心した千菊丸。それは、5歳の時のことでありました。

 

1399九(応永6)年、千菊丸は京都伏見の禅宗の安国寺(あんこくじ)に入りました。それは、つらく厳しい修行の始まりでした。

 

和尚、像外(ぞうがい)は、とても厳しい方でした。像外は千菊丸に周建(しゅうけん)と名前を授けたのです。
しかし、像外は水飴が大好物で年寄りの薬と言い、隠れて水飴をなめるなどし、子どもがなめると死んでしまうと周建たちに話すのでした。

 

ある時、周建の仲間が義満から預かった大切な茶碗を割ってしまいます。
慌てふためく像外や小坊主達。

 

義満に茶碗を返す日に、周建は「大丈夫私にお任せ下さい」と胸を張るのでした。
周建は、義満に会うと「生あるものは、必ず死ぬ」「形あるものは、必ず壊れる」と禅問答をする。

 

……伊予の局の子がこれほど賢いとは末恐ろしい、と感ずる義満……

 

周建は、「ここに壊れたものがあります」と割れた茶碗差し出すと、義満は激昂し手打ちにすると刀を手にします。すると周建は「私は、一生仏に仕える身、命ある限り悟りを得るため修行をしております。そのような私を成敗するならばお好きなように」と義満に詰め寄る周建。

 

……一生仏に仕えるのか、ならば私に弓を引くことはあるまい……
と刀を治める義満。

 

帰り道「ドキドキしたぞ」と像外。「私も、恐かったです」と、にっこりする周建。

 

                                            つづく

                                  (1週間ほど後にUPします)