過酷な旅を乗り切り、元の国、大都(現在の北京)に入ったマルコたち一行は、フビライハーンに謁見した。フビライハーンはチンギスハーンの孫で、5代目のモンゴル帝国皇帝であった。マルコには、フビライハーンがとてつもなく大きく見えた(今でいうオーラと思います)。

 

  フビライハーンは、狩りを好み、2万の部下で野山を取り囲み獲物を取り尽くす。その後には、獲物は全く残らなかったという。またハーンはトラ・ヒョウを飼い慣らし狩りに使っていた。

 

  

   そして、正月には5000頭のゾウ、ウマとラクダの行進があり、さらに、1万2千人の貴族全員に白い服を着せ宮廷に参内させたという。

 

    さて、元寇の役は文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)がある。
合戦は海上で激しく繰り広げられたが、勝負はつかず、そのうち台風の襲来があって、元の軍隊(軍艦)は全てひっくり返った。
それ以来、ジパング(今の日本)は神の国。近づくと神の怒りを受けると信じられた。

 

   ハーンがジパングに拘ったのは、黄金がいっぱいあると信じていたからである。そんな様子を見て、マルコはジパング行ってみたいと思った。しかし、それが適うことはなかった。

 

   マルコたちは、元に来て17年もの歳月が流れた。一度ベネチアに帰りたいと思うが、ハーンは絶対許さなかった。
そんなとき、ペルシャ王の妃が亡くなり、ハーンの姫を妃に下さいとの話に、ハーンは娘コカチン姫(28番目の娘で17歳であった)を嫁がせることにした。

 

   その頃、中央アジアでは激しい合戦があって、陸路はムリと判断し、インド周りの航路を考えた。しかし船を操縦できるものはおらず、思案の所に、マルコは大事な姫のためにと自ら名乗り、それならばと船団のリーダーをハーンが命じた。

 

    ペルシャからベネチアまでは、すぐだと小躍りするマルコたち。
   海の東西貿易航路(海のシルクロード)を、14隻の船に2000人が乗船し出発したのは1292年、マルコ38歳の時であった。しかし、途中、荒らしに遭い命からがらスマトラ島にたどり着いたマルコに残酷な知らせがあった。それはフビライハーンの死であった。

 

   コカチン姫を送り届けたマルコは、24年ぶりにベネチアに帰った。時に、1295年マルコ41歳であった。その時、船の乗組員はたったの18人しか残っていなかった。

 

  ホッとする間もなく、ジェノバとの戦いが始まった。船首を鉄で覆った敵の船に体当たりされ、あえなくマルコたちは敗れた。捕虜になったマルコは、看守たちに元の国の様子を話し、それを、ルスティケロというビザに住む詩人が、口述筆記したのが「東方見聞録」である。
しかしマルコの話は、空想物語だと誰にも相手にされなかった。

 

   それから30年後、病気の体を横たえるマルコに、あれは嘘だったと認めてくれ、すると家族も不名誉から逃れられると諭された。それでもマルコは、東洋への旅は私の青春の全てだ、と薄れていく意識の中で、自分は嘘つきではないと言った。そして、マルコは70歳の生涯を閉じた。

 

   晩年のマルコは不幸だったという説と、幸せだったという説がある。
マルコが死んでから571年後の1895年に「東方見聞録」をもとに調査したスゥエーデンの学者へディンによってマルコ=ポーロの正しさが証明されたのだった。
マルコのジパングの記述に刺激を受け、コロンブスが冒険の旅に出たといわれている。

 

   長い記事にお付きあいくださり、ありがとうございます。

 

   今日は、雪の画像をアップします。

   当地、秋田も大変な雪にみまわれてます。積雪は、約30㌢ほどとのこと。

 

 

 

 

 

   皆様、インフルエンザ、ノロウィルスにご注意ください。

    では、また書きます。

 

  拙著です。

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