娘賢子(けんし)も産まれ幸せな紫式部。
その頃、都(京都)には疫病が蔓延し夜盗が暴れ回り、内裏(だいり。天皇の住居)では火事があったり、街は荒れていました。

 

そんな不幸を追い払おうと、祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が行われました。
それが今に続く、祇園祭です。
不幸は、紫式部にも起き、夫宣孝が疫病で死んでしまったのです。
悲しみに沈む紫式部に物語を書いてみたらと、周囲の進めがあって本格的に筆をとり夜を徹して書きました。
それが源氏物語です。

 

それから四年の月日が過ぎ、藤原道長から宮仕えへの誘いがあり、道長の娘で一条帝の妃になっている彰子(しょうし)に学問を教えて欲しいと、定子(ていし)に仕えたあの清少納言のようにと。

 

人が大勢居る所を嫌うは式部は、辞退したのですが道長には断ることも出来ず、宮仕えすることを承知したのでした。時に、式部三十四歳でした。

 

式部の書いた物語を熱心に読み、早く次を読みたいとせがむ彰子。
それは、皇子(おうじ)として生まれたが、天皇になれなかった光源氏を主人公にした物語でした(源氏物語はここでは省きます)。

 

彰子に好かれ、物語を書く式部は、当然のごとく仲間からは妬まれ、そのような陰口は式部の耳にも入ってきました。
ひどい環境で暮らす式部の、ただ一人の理解者(友人)は、小少将(こしょうしょう)でした。
しかし、式部は宮仕えに向かないと里下がり(自分の家に戻ること)しましが、物語の続きを読みたいと彰子に戻るように言われ、式部は再び彰子に仕えるようになりました。

 

彰子に、女房の仕事は一切しなくても良いから、物語だけを書くようにと言われ、書くことが自分の使命と決心し猛然と書き進めました。

 

そして、源氏物語は宮中でも大評判になりました。
そんな折、奈良の興福寺から貢ぎ物を持って使者が来る、その接待役を式部にやってくれと、道長から言われました。
しかし、式部は、その役目を宮中に入って間もない伊勢太夫(いせたゆう)に譲ったのでした(言ってみれば、大事な仕事を後輩に任せたのです)。
その宴で、「いにしえの 奈良の都の 八重桜けふ九重に にほひぬるかな」
(昔の奈良の都の八重桜きょう九重に宮中に咲きほこっている。という意味)。
使者は、見事、見事と大喜びした。
伊勢太夫は、その時の感激を生涯忘れなかったと言います。今で言うプレゼンに優れていたようです。
(個人的な話になって恐縮ですが、子どもときから百人一首のこの歌が好きで、目を一点にこらし狙っていました)

 

やがて彰子が妊娠し、その子の誕生祝いに、源氏物語を完成させてくれと道長は式部に厳命したのでした。
そして、彰子は皇子を出産しました。皇子誕生に沸き返る宮中。

 

話を変えて、当時の華やかな宮中で欠かせないのが十二単です。
衣を何枚も重ね、その色の組み合わせを競っていました。ただ、その色にも天皇の考えが色濃くあって、紅と青の唐衣と裳(も。裾の長い服)は天皇の許可があった人しか着用出来ませんでした。
我々とは、関係ないものと考えがちですが、一番上に着るものを「上着」といいます。ちょっとビックリ。

 

当時、トイレをどうしていたかといいますと、高貴な女性がトイレに入ると、音が外に漏れないように、トイレ前に置いた瓶(桶)の水をかき混ぜて音を消していたといいます。
現代の、音姫(○○会社の商品名がこの文章に適切でした)に通じてます。
こうして、平安時代は現代に脈々と生きてます。

 

さて、ここで清少納言と紫式部のことに触れてみましょう。
定子(ていし)に仕えた清少納言と、彰子に仕えた式部とは10年以上の違いがあり、実際には顔を合わせてないのですが、式部は、とても清少納言にライバル意識を持ち、漢字を間違えてるとか、あれこれと清少納言のことを言ってます。ちょっと暗い性格だったのかも。
それでかどうか、紫式部を元祖腐女子という話もあります。

 

すっかり長くなり恐縮です。
晩年、紫式部は京都北山に暮らし、日々を写経で過ごしました。
生没年も分からないですが、「源氏物語」を書いたことは世界に誇れます。
千年の時を経て、今も、研究され多くの翻訳本もあります。
紫式部。最高峰の小説家といえます。

 

 

 

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