この名前、ホントはペンネームです。
本名は、藤原香子(ふじわらのたかこ)、という説が有力です。
当時は、父親や兄の勤務先を名前に使っていました。父親が勤務していた式部省、さらに紫と付いたのは、源氏物語の若紫が大好評だったことで、その名がついたと言われています。
紫式部に関しては、生没年からして不明で諸説紛々です。ですから、それら諸説をいちいち書くことをここではしません。
またこのころは、源氏物語をまだ出版してませんから紫式部という名前ではないのですが、わかりやすさを優先して、敢えて紫式部を使います。
紫式部の家は、代々学問を専攻する家です。他の流れとしては、摂関政治(幼い天皇に変わって政治を取り仕切る)を行う家系がありました。
その代表的人物が藤原道長(ふじわらのみちなが)です。彼は自分の娘を次々に天皇の中宮(ちゅうぐう)にし、絶大な権力を手にしました。
彼の有名な歌に、「この世をばわが世とぞ思う望月のかけたることのなしと思えば」
(この世は、わたしの天下のように思う。満月のように、わたしの勢力にかけたところがない)とあります。
平安時代の貴族は、中宮(天皇の后のこと。中宮という呼び方も、天皇が違ったりするとまちまちです)に仕える女房(にょうぼう。侍女のこと)は家柄によって、上﨟、(じょうろう)中﨟、(ちゅうろう)下﨟、(げろう)と分けられていた。
上﨟は、主に中宮の話し相手をし、中﨟・下﨟は中宮の生活の手伝いをしていた。
当時の貴族の女性は外に出ることは殆どなく、中宮への勤務は、いろいろな経験が出来る貴重な場でもありました。
また、この時代は「文字」が大切で、もともと文字のなかった日本に中国から漢字が入ってきました。漢字を読みやすくアレンジしたのが、平かなで「かな」というのは、仮(かり)という意味です。
そして、貴族の男性は漢字・漢文を読み書きし、女性はかなの読み書きをするのが常識でした。
しかし、紫式部は学者である父藤原為時(ふじわらのためとき)に漢文の教えを受け、和歌をおじの藤原為頼(ふじわらのためより)に習いました。
紫式部が12歳になったころから、父為時は、職場から様々な本を借りてきては紫式部に与えました。また、宮中の様子や、為時から聞く貴族のうわさ話を少しずつ書き留め、それが後の源氏物語へと繋がってゆくのです。
その頃に、紫式部は藤原道隆(ふじわらのみちたか)の屋敷の花見に招かれた。
道隆は娘定子(ていし)を一条天皇の中宮にし、絶大な勢力持っていました。
定子に仕えていたのが、漢文を読み書きし、枕草子(当時の随筆)を書いた清少納言です。その花見の宴で、藤原宣孝(ふじわらののぶたか)が、紫式部を見そめました。
それから程なく、父為時が越前に(現在の福井県越前市)赴任することになり、紫式部は父について行くことを懇願しました。貴族の女性が外に出ることがないだけに、紫式部にとり、見聞を広めるのに大いに役立ったのでした。
時は移り、一年半ぶりに都(京都)に帰った紫式部は、その間じっと待っていた宣孝と結婚しました。
紫式部26歳、宣孝は20歳ほど上だったといわれています(当時の平均寿命は30歳くらいでした)。
そして、一年後に女の子を産み、名前は賢子(けんし)と名付けられました。
当時の結婚の形態は、妻問婚(つまどいこん)といわれるもので、男性が女性の家に通うものです。男性は何人も妻を持つことができ、女性は子どもを育て家を守るといった形でした。
通ってこない男性を、恨んだり思いを寄せる歌などが、たくさん詠まれてもいます。
この文章、すっかり長くなりました。
5日後辺りに、この続きを書きます。その内容は、やはり気になる十二単のことを取り上げてみます。
今日の最後に、紫式部の歌です。
めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし よわの月かな
(久しぶりにめぐりあってみても あっという間に 雲にかくれた夜中の月のように友だちも帰ったしまった)という意味です。敢えて句読点を使いませんでした。
ますます長くなって恐縮です。気分を変えて、スナップをどうぞ。
ムラサキシキブ
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