#アントニオーニ監督 #欲望BlowUp  #1967年カンヌパルムドール受賞 | Gon のあれこれ

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読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

ミケランジェロ・アントニオーニ監督が1966年、舞台をロンドンに設定して制作した映画。原題のBlow up は写真の引き伸ばしのこと。

エンデングで主人公のフォトグラファーがパントマイムのテニスにボール拾いとして参加したことの意味を巡ってあれこれと議論を呼んだらしい。

物語はロンドンのさるところにスタジオを持つフォトグラファーのトーマスが主人公。

ファッション雑誌ばかりでなく、上揭の男性誌向けのエロティックでSeductiveな女性の写真、あるいは面を汚しボロを着て工場に潜り込みリアリズム的写真を盗撮する。一方背景に使う材料を求めて骨董屋に行きそこの女主人が店を手放そうとすることを知り、その土地が値上がりする目論見で他人を使って安く買収しようとする。

プロに徹しモデルに安易に手を出したりしない一方、抜け目なく将来の利益を計る、そんなドライな青年である。

 

ある日骨董屋の帰りにその近くの公園で写真を撮ろうと入り込むが、そこで年齢が不釣り合いな男女の抱擁に遭遇して木の陰に隠れて近寄り盗撮しようとする。それに気づいた若い女がフィルムをよこせと迫り、拒否するとその女がスタジオまで追ってくる。

スタジオで女は自分のヌードを交換条件にフィルムを手に入れようとする。

そこに何かの匂いを嗅いだトーマスは偽のフィルムを渡して女を帰す。

 

トーマスはモデルになりたがっている2人の少々頭の弱そうな女の子と戯れながら、ネガを現像し拡大(blow up)して、

現場には第三の男がいたことを突き止め現場に行ってみる。

そこには男の死体があった。

スタジオに帰ってみると暗室などが荒らされており、フィルムも拡大した写真もない。再度現場に行ってみると最早死体もなかった。

その帰りイカレタ男女のグループがテニスコートでパントマイムのテニスのゲームをしている所に出る。

ボールがコートをはみ出しトーマスの所に転がる振りをして彼らはトーマスにボールをコートに戻すよう迫る。

トーマスはその圧力を感じたのか彼らのゲームに参加してパントマイムでボールを返す。

 

ともに1906年生まれのロッセリーニやヴィスコンティに遅れて1912年に生まれたアントニオーニは、実存的危機を描いた、疎外三部作ともいわれる「情事」(1960)、「夜」(1961)、「太陽はひとりぼっち」(1962)の監督として1世を風靡した。当時の知識人たちは映画を見終った感想をパリのカフェで述べ合ったりするのが知的スタイルであったらしい。

 

街頭で写真を撮ることも映画を撮ることも他人の人生を窃視する欲望を充足する面はあるだろう。

実際、映画監督はカメラを手に持って映画の材料を探し回るらしい。

そしてあるフレームの中に切り取って我々に見せるのだ。

そうした観点からアントニオーニ自身がトーマスに投影されている部分は多少あるだろう。そしてその場所の選択が自国のヴァチカンのあるローマではなくロンドンであることは、そこで自分の個性がより自由に発揮できる、伸び伸びと仕事が出来ると感じたせいではないかと思う。

それらがハービー・ハンコックのサントラやロックのライブでエレキをたたき壊すシーン、あるいは少女たちと卑猥に戯れるシーンに現れている、と思うのだ。

だから一見してこれらのシーンの意味を深読みしようとする者たちにはいろいろと議論はあろうが、都市とそれが産み出す人間の風景を醸すには一つの戦略として理解出来る。

 

またラストでトーマスがパントマイムのゲームに参加したことについて、そのパントマイムには真実(ボール)がないから、彼が公園で見た殺人事件は幻覚ではないか、との議論もあるらしいが、それは彼がスタジオに帰って荒らされた現場を再認すれば直ぐ分ることで読み過ぎの議論だろう。

 

パリはもとより、東京でも実存主義が疎外がはやり言葉になり、黒い長袖のシャツに黒いパンツをはいて銀座の裏通りでシャンソンを聴くことがかっこよかった時代である。そうした時代の影響もあるだろう。

 

むしろ私はトーマスが自分の見たものの証拠を失ったことでその追求を諦めた結末であるととる。彼ひとりで出来ることには限界があるのだ。

 

それは敗北、というより無駄な闘いはしない、自分のしたいことにエネルギーを注ぎ一定の経済的成功も収めたい、、というような人間像だ。

もう既に利己的人間が兆している。

一面ではそれは実存主義の人間像でもある。

よって疎外三部作からのつながりも垣間見える。

 

アントニオーニ監督は1985年脳卒中に見舞われたが、長年温めていた映画を制作側の要望を受け入れてヴィム・ヴェンダースとともに撮ることを承諾し「愛のめぐりあい」(1995)を完成する。

2007年94才でなくなった。