1950年黒沢明が「羅生門」でヴェネチア映画祭のグランプリを獲得。
これに刺激を受け溝口も大いに闘志を燃やしたらしい。
この1951年封切りの「お遊さま」はその闘志燃えさかる中の作品。
田中絹代主演、乙羽信子が準主演である。
佐藤忠男の「溝口健二の世界」の年譜によれば、この年溝口は義弟田島松雄の未亡人ふじを事実上夫人とし、その娘宝と嶺を養女とする。
しかし同書では、「お遊さま」の撮影の途中で田中絹代がちょっと演技をしくじり、絹代が謝ってやり直しを求めたとき、溝口は意外と優しくO.Kを出した。そのとき溝口は田中絹代に恋をしていたからだ、とある。
(同書p274)
前置きが長くなったが先ずはあらすじを映画ドットコムより。
お遊さまは、小曽部の家から金満家粥川へ嫁入って間もなく夫に別れたが、一人子一の養育のかたわら、贅沢と遊芸三昧に憂さを晴らしているひとであった。一番仲のよい妹お静が芹橋慎之助と見合いをするのに付き添って行くが、慎之助はお静よりもこのお遊さまに深く心をひかれる。そこでこの縁談はいったん破れかけるが、お遊さまが、結婚するならぜひ慎之助に というたっての願いにお静は承知して芹橋へ嫁ぐことになった。お遊さまも、慎之助を想っていることを察し、お静は二人の間のかけ橋になる決心をしたのだつた。そのため、お静は慎之助の名前だけの妻に甘んじ、慎之助と共にひたすらお遊さまの心を慰め、たのしませることにつとめた三人がそろっての物見遊山が度重なるに従って、周囲の口もやかましくなり、ついにはお遊さまの婚家粥川家でも問題となって、一が病没したのを口実に、お遊さまは実家へ帰されることになった。そのときになってお遊さまは自分のために慎之助とお静を不幸にしていたことを悟って、兄にすすめられるまま、眼をつぶって伏見の酒造家へ再婚して行った。芹橋家は破産し、お静と慎之助は東京にわび住居をする身になったが、お静は慎之助との間に一子をもうけて幸福であった。しかし産後の肥立ちが悪く、慎之助に見とられながら死んだ。お遊さまは、淀川にのぞんだ伏見の豪華な屋敷に今宵は月見の宴を催していた。その時門前に捨て子があったと女中が連れて来た赤ん坊は、慎之助がお静亡きあと、思い余ってお遊さまに托したものであった。淀川の芦の間を遠ざかる舟の中に、ひとり謡曲「熊野」をうたう慎之助の姿があった。
互いに惹かれる男女が、世間の掟、目を慮って、自分の妹を男に嫁がせ、その愛を知る、他でもない女の妹で男の妻となる女が、姉の心を慰めつつ、男の子を産み自分はそれなりの満足した生活を送る、という前半部分は戦後の日本でさえ、どの程度受け入れられるのかの疑問が湧く。
つまり
「お静は慎之助の名前だけの妻に甘んじ、慎之助と共にひたすらお遊さまの心を慰め、たのしませることにつとめた」という部分。
家制度に関わる運命的なものも、愛を成就するための悲劇性もない。
したがって、お遊にも慎之助にもお静にも、各自の生き方に「美しさ」はみじんも無く、映画はなんとなくだらだらと続いてゆく。
佐藤忠男の前掲書には慎之助とお静の初夜の場面について、
「この場面を、溝口は、日本家屋のいくつもの部屋を貫き、動いては止まり、止まってはまた動き、見下げたり見上げたりする移動撮影で撮っている。(そして二人の動きと台詞を詳述し、中略)男が自信を失ったとき、こんどは女が彼を見下ろしている。立つことと座ることという、高さの振幅の変化を心理的な高揚と落胆の振幅に変え、さらにそれを移動撮影によっていっそう情緒的にするのである」(同書290-294p)
しかしこの場面は、お静の行動を観客に納得させることが出来るかどうかの決定的な場面であるが、その場面を「見上げたり、見下ろしたり」する二人の心理的振幅で可能であるとは思えない。
次いでシナリオの依田義賢は「溝口健二の人と芸術」(現代教養文庫)のなかで、
「あの異常な三角関係は、一般大衆の理解に合わせることはよういなことではありません。」(中略)「田中絹代さんがお遊様のようでないというのも苦しいところです。田中さんの賢さは所帯の目のとどく賢さなので、この目を殺すことができませんでした。田中さんのお遊さまにすると(今度は)慎之助をめぐって二人お静が出来てしまうのです。これは本当に難しいところでした。溝さんは、一番苦しんだところではなかったかと思ってます」(同書202、204p)
「所帯の目の届く賢さ」と、その目は、田中絹代という女優がしっかりした女性像で、生活臭のない役には向いていない、と言う点をいうのであろうか。
要は配役のミスマッチ、無理筋ないし谷崎の陰影ー曖昧さーの映画化に苦しんだと言うことだろう。
結果説得力のある映画にはならなかった。
監督が女優に惚れたり関係を持ったりしたりする映画は、「お遊さま」だけでなく、海の向こうのスコセッシが「ニューヨーク、ニューヨーク」でライザミネリと映画制作中、男女関係があったとされるが、スコセッシのこの映画も凡作だとおもう。
一方今村昌平は、「神々の深き欲望」(1968)で 共演者の嵐寛寿郎が
「男優かて三国連太郎、破傷風にかかって、足1本なくすところでおましたんやで。それでも、まだこりずに、ゼニもらわんと、自費でやってきよりますのや。変なのばっかり。沖山秀子、監督と毎日オメコしとる、かくし立てしまへん。」
と述懐しているから、沖山と男女関係はあったのだろうが、映画はその年のキネマ旬報ベストワンになったから例外的秀作としておくが、今村の場合三国にせよアラカンにせよロケ地には通いであったから、二人の関係が周辺に弛緩をもたらすようなことはなかったのだろうと(無理に)推測する。このあたりは「神々~」の時に取っておきたい。
参考: