#マーティンスコセッシ監督作品  #救命士  #ニコラズケイジ | Gon のあれこれ

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読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

原題は「Bringing out the Dead」(1999年作品)

 

 

「他人に哀れみを持つ人に常に興味を持ってきた。

私はホームレスや酒飲みに囲まれて育った。

一方でまともな家族と暮らし他方ではどん底の人生を目にしていた。

彼らは死を待つだけ。 実際毎日のように死んでいった。

以来、私の中には葛藤がある。

彼らを哀れむ気持ちと不快に思う心。

そんな葛藤の映画だ」

とスコセッシ自身が語っている。

 

救急救命士のフランクは、自分が救えなかった人たちの亡霊に悩まされる一方、命を救う経験を「世界一の麻薬、、神が自分の中を通り過ぎた。たったの一瞬だが否定できない。俺は神だった」と万能感に浸る。

 

「誰かを救うたびに持つエゴや思い上がりを救命士たちは昇華させ、哀しみや思いやりの心へと到達する。」(スコセッシ)

 

原作はジョー・コネリー。自らの救命士としての経験をベースに小説化する。その意図は、

「本を書くことによって、救えなかった人々を弔いたかった。

クイーンズの救命士養成校に5週間通ったのち、救急車でイーストハーレムに送られた。

救命の定義は常に変わる。初心を忘れず柔軟に対処しないと重責に押しつぶされる。救えないものは救えるものよりはるかに多い。

そのことを伝えたかった。」

 

映画の中でフランクは

「俺の仕事は命を救うことではなく、見届けることなのだ。

現場に駆けつけてきて悲しみを拭き取る雑巾」

と救うことのできなかった日が続いて鬱屈する。

 

何度も手を切って自殺を図ろうとするやせこけた老人に、フランクは

死にたければこう切れ、と教えた後ナイフを突きつけ、

「お前は死を望みながら、死ぬ勇気はないのか」と迫る。

一方、心拍停止から何回も蘇生したタフな父親を献身的に介護するメアリーに出会う。

家族を持たず鬱屈を癒す拠り所を持たないフランクはメアリーに惹かれていくが、メアリーの父親バークは、フランクと二人きりの時

何度も「死なせてくれ」と懇願する。

フランクはどうすべきか迷う。

 

DVDに付属した「特典映像」を交えながら綴ったが、シチリア系イタリア移民社会に1942年生まれ育ったスコセッシには、現実の腐敗と矛盾に取り組んだ作品が多く、深い余韻が残る。

そしてその余韻がアートをアートたらしむものなのだろう。

 

一方少年時代にはカトリック司祭を目指したことがあり、「キリスト最後の誘惑」や「沈黙」など直接キリスト教を扱った映画もある。

この映画も、「キリスト者」としての生き方と交錯する面があることは言うまでもないだろう。

 

このコロナ禍で、感染拡大が予測されながら、Xファクター(山中教授)、ただのインフルエンザ(麻生太郎)、PCR検査は検査誤差が却って感染拡大をもたら(厚労省)、、などなど根拠なき楽観や過小評価によってしっかりとした見通しに立った備えを怠り、一方では大きな医療資源を負担せざるを得ず、よって感染拡大を助長するオリンピックは、ずるずると無い崩し的に開催して来た自公政権。

大阪維新はどうだ、雨合羽にイソジン、愚劣のオンパレードだ。

いまや医療崩壊は現実のものとなり、救急隊員はコロナ中等症(重症化するか否かは事前の判別不可能)者は自宅待機(単身者はどうする!)重症者の搬送先も見つからない状態だ。

 

感染した人たちの不安や恐怖も相当なものだろう。

それを置いて、「感動」などと舞い上がるスポーツ選手の無知無教養には心底情けなくなるが、日本国民を見下すバッハも許しがたい。

 

また、救うことの困難な、再び会う時は死亡しているかもしれない患者を搬送せざるを得ない救急隊員の気持ちを思うと切なくなる。

残念ながら、これらの難局は当分続くだろう。

 

もう言葉もない。

日本映画界にはひとりのスコセッシもいないのか?

 


追記:映画「救命士」の予告編 日本語ヴァージョンが見つかりません。よって英語版となりました。悪しからず。