神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世(1552-1612)は信長(1534-1582)や
家康(1543-1616)と同時代人だが、天下人を目指した彼らと違い、
24歳の時、内憂外患のローマ皇帝を父親のマクシミリアン2世から継承した。
神聖ローマ帝国の版図は今でいうドイツ、オーストリア、チェコとハンガリーの一部を含むが、理念的にはローマ教皇の守護者、つまりキリスト教国の世俗の帝王であった。
キリスト教国の帝王、と言っても西のフランスにライバルでもあり、名君の誉れ高きアンリ4世(1553-1610)が、スペインには同国黄金時代を築いた大叔父のフェリペ2世(1527-1610)、海峡を挟んで英国にはプロテスタントのエリザベス1世が、そして遠い東にはロシア正教徒でタタール人の血を引くイワン雷帝(1530-1584)の治世であった。
しかし時は封建時代。
自前の領地や宮廷、それに軍隊を持つものの、帝国領内にはローマ皇帝の選挙権を持つ選帝侯、貴族(公爵、侯爵、伯爵)の領地、教会領などがあり、それぞれが自領の拡大や裁量権、特権を争っており、半ば独立国の様相を呈し、神聖ローマ帝国皇帝はそれらに乗っかるシャッポ(帽子)の様な物でもあった。
参考:アルチンボルド展のブログより
盛期ルネッサンスに在った1492年コロンブスは西インド諸島に出発し、1497年バスコ・ダガマは喜望峰を回ってインドに到達した。地中海交易から疎外されたポルトガルとスペインが先鞭をつけ、ハプスブルグ家フェリペのスペインがアフリカや東洋の異国の産物をヨーロッパに流入させた。
アルチンボルドが仕えたプラハのハプスブルグ家には世界の異物を集めた博物館があったという。
彼の絵の中の草花、動植物にはそれらが描き込まれ、それを見つける謎解きの面白さも見る側にあったのかもしれない。
一方足元では宗教改革の嵐が吹き荒れ、ロヨラのイエズス会のカトリック対抗改革も公認されてヨーロッパが分断され、帝国の統一と安定を脅かす事態があった。
1665年ニュートンの万有引力の発見まで50~100年あるが、ポーランドのカトリック司祭コペルニクス(1473-1543)の地動説、「それでも地球は回っている」と異端審問に掛けられたガリレオ・ガリレイ(1564-1642)等によって天文学としての占星術、化学としての錬金術から出発した科学がキリスト教的自然観宇宙観を揺るがし始めた時代でもあった。
自然の秘密を知るものは、自然を支配するものである、という秘教的、魔術的世界観はルドルフ二世を魅了し、アルチンボルドの絵画の中に「不統一の統一」を見て取ったホッケは、その統一を求める心性が揺れ動くルドルフ二世の神聖ローマ帝国の希求と重なった、と見ている。
自分の座る皇帝の座が、理念ー全キリスト教国の王、と現実ー不安定な帝国、の狭間で揺れるとき、儀式は帝国の威信を示すために一層、象徴ールネッサンスから受け継いだ人文主義と神秘主義の象徴に加え、ハプスブルグ家やボヘミア王の象徴などーに満ちたものになる。
アルチンボルドが描くルドルフ二世像は、ローマ神話の四季の移り変わりを司る神ウェルトゥムヌスに擬して描かれている。
四季とは花と果実、豊穣であり、それはギリシャ哲学の風・土・水・火の四大元素からなり、錬金術の構成要素でもあった。
一方、彼の収集した「驚異の部屋」に至る情熱の源泉は何か。
神は人間と自然を創造した。
大航海時代で世界は拡張するとともに異界の文物も流入した。
それらもまた神の創造物であってみれば、好奇心に満ちた者には確かめずには居られないだろう。
帝国宮廷の威信は、現在の中国やロシア、あるいは北朝鮮では軍事パレードで示そうとされるが、当時はお祭りであり葬儀や戴冠式であった。
ハプスブルグ家の宝冠ー今回の展示にはない。
そしてもう一つの威信は、最先端の知識人や芸術家を抱える事により示される。知識人としてはヨハネスケプラーがそうだ。
宮廷画家としてはアルチンボルドの他、サーフェリーやハンス・フォン・アーヘンなどの絵画が展示されている。
サーフェリーの風景画は新プラトン主義の象徴体系が織り込まれている、と言われるが、その背景にある景色は、ルドルフが好んだチロルの風景が書き込まれている。ルドルフはサーフェリーをチロルに派遣したらしい。
アーヘンの絵はマニエリスム的特徴を持つエロチックな絵画である。
婚姻の関係で繁栄を築いてきたハプスブルグ家にとっては、他の王家との婚姻が死活的重大事だが、相手について廷臣の意見はなかなか纏まらなかったらしく結婚は出来ないままであったが、愛人が居て子供も何人か設けたらしい。
その彼はエロチックな絵を好んだが、最も有名なのはアルチンボルドと並ぶルドルフお気に入りの宮廷画家スプランヘルである。
しかしエロチックな絵画を好んだのはルドルフに限った事ではない。
ルネッサンスのギリシャ文化復興はギリシャ文化自体の異教性、エキゾチズムが紛れ込んだ性格のものでもあって、インドやペルシャなどの東方のエロチックアートの混入がルネッサンス絵画に新鮮な息吹をもたらした。
そうした観点からすると取り立てて言うほどのことはないだろう。
ボッチチェルリもティツイアーノも クラナハだって十分に官能的だ。
エロチックアートは洋の東西を問わず普遍的だ。
我が日本の誇る春画を見よ。春画は浮世絵の鬼っ子ではないのだ。
展覧会のパンフレットに
ヨーロッパ史上最強のオタク
という表現があったが、彼は「オタク」と形容される存在ではない。
冒頭、神聖ローマ帝国の「内憂外患」と述べたが、外患はオスマントルコのハンガリーへの侵入であり、ライバルフランスの動向であった。
一方内憂とはカトリックとプロテスタントの、あるいはルターとカルヴァンとの宗教戦争がキリスト教国全体を覆い、全キリスト教国の王としてのルドルフを悩ませた。
また統治機構もハプスブルグ家の廷臣と、帝国内の有力貴族の官僚との二重構造で複雑で、意思決定は必ず何らかのハレーションを起こさずには出来なかったし、「何もしない」事のハプスブルグ家の過去の成功体験もあったりして後世の歴史家の評価はさんざんである。
それに加えハプスブルグ家の血筋の中にメランコリーの気質があるらしい。まさに「内憂」である。
歴史と言うのは、例えば宗教戦争を解決するには、それなりの気運が必要だ。気運とは例えば「えん戦気分」であり、戦いの犠牲と疲弊がそれをもたらす。
ルドルフは歴史の、いわば「踊り場」に居たのであり、彼の行動を「奇人、変人」とするのは公正な評価とは思えない。
と言う事を強調しておきたい。
参考:
追記:このブログは主に以下の資料を参考にした。
「魔術の帝国 ルドルフ二世とその世界」平凡社
「ルネッサンスの神秘思想」講談社学術文庫
「図説ハプスブルグ帝国」河出書房新社
など。