プロローグはパイプをくわえた男をギロチンにかける場面。
家政婦風の若い女が嬉しそうにその首を前掛けにたくし込む。
続くは戦闘の場面。武器から見て第二次大戦後であろう事がわかるが何処かは不明。
略奪とレイプと、戦場の下手なピアノ奏者、兵士が川の中で司祭の仮装をした者に懺悔をして罪を許してもらう。
兵士に略奪したワインを飲ませる許可を与える司令官は味見をしてペッと吐き出す。
なんだか暗闇で鼻をつままれた気がするうちに、場面はパリ、地下鉄の駅表示に「バスチューユ」とあるから、冒頭はフランス革命かと当て推量をする。
髑髏を収集している男はギロチンに掛けられた男とよく似ているが定かではない。
そしてこの男の知人である男も戦争場面に出てきた司令官によく似ている。
仲がいいのか悪いのかよくわからない二人。
おまけに司令官に似た男は古書店隠れ蓑に武器売買をしている。
会話からは元貴族であるようだが、別の貴族の男が遺産相続か何かのトラブルで貴族の館を追われる話が出てくる。
それにローラースケートのひったくり団の元締めの若い男。
その男があまり上手そうではないバイオリン弾きの若い女に恋をして、先ほどの二人にからかわれ半分に手ほどきを受ける。
その若い女の父親はどうやら警察の偉いさんらしい。
その偉いさんは街のホームレスを部下に命じて追っ払う。
どうも取りとめもない話だが、映画に明確なストーリーがある訳ではないから仕様がない。
もう一つ別な筋があって、廃屋の廃材を使って小屋を建てている男がいる。
遠くからはっきりとは分からないがどうもマチュー・アマルリックに横顔が似ている。
これもこの映画が「クローズアップ」を使わない所為だ。
生煮えの気持ちを抱いたまま帰宅して、暇のついでにイオセリアーニ監督のプロフィールや
この映画が出品されたロカルノ映画祭での監督インタビューなどを読む。
その結果いくつかの「❔」がわかる。
この映画は、ある人物のキャラクターを描こうとしている訳ではない。
この映画は特定の事件・ドラマを描こうとしているのでもない。
では何を?
となった時に原題の「Winter Song」がヒントになる。
1934年生まれで83歳になる監督はグルジアに生まれ、音楽学校を出てモスクワ大学で数学を学び、フィルムスクールに入って反体制的になり、何本か映画を作って1980年代初めフランスに渡る。
当時まだ10代のマチュー・アマルリックのデビュー作『Les Favoris de la lune』や自伝的作品と言われる「汽車は再び故郷へ」(これはこの映画を理解する上で大変参考になる)などがある。
どうやら戦争のシーンはロシア・グルジア戦争らしい。
原題から察するに、歌で言えば斉唱や独唱ではなく、合唱や重唱が狙いらしい。
「世の中は、いろいろな尽きる事の無い障害物があり、いつも幸せで終わるとは限らず、不確実なことだらけであるが、人生は続いていく」
と言う事を描きたかったのだろう、と推量する。
個々の人間に焦点を当てないこと、これがクローズアップを避け、
ドラマチックなストーリを描くのではない、これが急な場面転換をしない。
俳優もバーサタイルに使う。一人何役でも使うのでアップが無いので人物像が混乱するが、人物像ーキャラクターを描こうとしている訳ではない。
とてもユニークな映画だ。
こういう映画の存在を知って、また一つ映画を見る楽しみが増えたような、幸せな気持ちになる。
カンボジア大使館のヴィザ交付は午後2時半からなので、午前にポッカリ空いた空白の時間を、何の予見も無しに見たこの映画、何か予期せぬ素晴らしい出来事に合う能力を「セレンディピティ」というが、この基は「好奇心」。
悪くない性格だ。