今日 11月30日はフェルナンド・ペソア没後80年。 | Gon のあれこれ

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読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

ポルトガルのそしてリスボンが生んだ偉大な詩人・著作家フェルナンド・ペソアがなくなったのは1935年11月30日。
聖ルイス・ドス・フランセゼス病院で20時30分、と言われるから日本時間では明朝5時半ごろだろうか。
ワインを一日一本は空けたようだから、アルコールの飲みすぎによる肝臓障害は自ら予期した病だったに違いない。

「もし私が全世界を手にすることができたなら、私はきっとそれを交換するだろう。ドウラドーレス街行きのチケットに。」

と こよなくリスボンを、とりわけ自分が生まれ、職場と行きつけのカフェがあるシアドを、散策や夕食をとったバイシャを自分の皮膚の一部のように馴染み愛したペソア。

「ファドは明るくも哀しくもない。ファドとは間(インターヴァル)の挿話だ。ポルトガルの魂が、生まれる前にファドを生み出し、望む力もなく、すべてであることを望んだのだ。」

と、書いたペソアのファド歌集、、リスボンで買い求めた
O FADO E A ALMA PORTUGUESTA 」 

をいま聴きながら書いている。
この書籍は、英訳入りであるが、別に買い求めたMARIZAが巻頭の歌を飾っているのも嬉しい。

リスボン滞在の7日に、ペソアが眠るジェロニモス修道院、ペソアの家(博物館)から、ペソア唯一の恋、実らなかったオッフィーリアにおずおずと口付けしたエストレーラ庭園、それから馴染みのカフェ A Brasileira 、翌日には勤め先の在ったLargo do Carmo ,生まれた場所 Largo de Sao Carlos を巡礼のように見て回った。
Largoとは広場の意味だが、坂道の多いリスボンにあって、人々のたまり場や休憩の場所としての役割を持つユニークな場所である。

カフェを中心に北側100メートル足らずのところに勤め先があり、南側100メートル足らずの所に生まれた場所がある。

一方夕食を取る場所として好んだ Martinho da Arcada はテージョ河に近いバイシャ地区、フィゲイラ広場から河の方に平行して向かっている3本の道
Rua dos Faqueiros
Rua dos Douradores
Rua da Prata
のプラタ通りの河よりにある。
そして、冒頭の詩にあるドウラドーレスは真ん中に位置する。

(2泊目夕食はこの辺りで取ったのだが、呼び込みがいるレストランに旨い店は無い、と再確認した。)

「私はいつもの様に床屋に出かけ,不安を感じることなく馴染みの店にすんなりと入る時の満足感を味わった。私の感受性は、新しいものに不安を覚える。自分が行ったことのある場所でしか落ち着けないのだ」

こう「異名」のソアレスに言わせているが、ペソア自身もカフェを中心に徒歩で10分前後の区域が行動圏であった。

しかし
「無数の夢を眠るとき、私は目を大きく見開いて通りに出る。だが,あいかわらず夢の航跡と確実さのうちにいる。
しかし私は確実な足取りで通りを進み、よろめいたりしないし、しっかりと返事もする。私は実在している。

そうすると、生の真っ只中で、夢がその広大な映画を展開しはじめる。私は下町(バイシャ)界隈の非現実的な坂道を下り、実在しない諸々の人生の現実が私の額を、偽の追憶の白いターバンで優しく包む。私は船乗りだ。自分の底に在る未知の海に帆を張る。

私は実在するということのうちにすでに十分な酔いを見出す。自分を感じることに酔い、彷徨し,まっすぐ歩いてゆく。
そしてこれらすべての裏側に、私の空があって、私はひそかにその星座となってちりばめられている。
わたしの無限をそこに持っているのだ。」

(中略してあります)

こう書いたペソアには狭い空間で同じことを繰り返す事そのものの中には退屈も憂さもなく、日々新たな感覚を生きたに違いない。

ユニーク、とか豊かとか、平凡な言葉で形容する事が惜しまれるペソア。
私の傾倒はまだまだ続きそうだ。