「勝手にしやがれ」などで著名な、かつてはヌーベルヴァーグの旗手、といわれたゴタールの作品。
「勝手にしやがれ」の題名もゴタールの名前も知っているが、映画を実際に見た記憶は定かではない。
1930年生まれだから、今年 御年85歳。
「毛皮のヴィーナス」のポランスキーは1933年生れの82歳。
両監督とも人間のエロスを描いて老け込む事を知らない。
原題は「adieu au langage」仏語は学んだ事がないので英語で「goodbye to language」
邦題の「愛の~」はちと訳し過ぎの気がする。
ゴタール自身が書いた映画のあらすじは
The idea is simple: A married woman and a single man meet. They love, they argue, fists fly. A dog strays between town and country. The seasons pass. The man and woman meet again. The dog finds itself between them. The other is in one, the one is in the other and they are three. The former husband shatters everything. A second film begins: the same as the first, and yet not. From the human race we pass to metaphor. This ends in barking and a baby's cries.
(末尾に邦訳をコピペ)
一人の人妻とその夫、人妻の愛人の三人プラス犬一匹の物語。
人妻役は二人の女優によって演じられる。
が 夫と愛人も暗い画面上で、顔のアップもなく二人を見分けることが難しい。
明確なのは人妻の裸体と「子供は欲しくない、犬なら、、」と徘徊する犬。
3Dの画面は前後の感覚が妙に歪み、人体は小振りに見える。
画面は突如、乱暴に切り替わる。あたかも連続したストーリを拒否するように。
大きな物音が突然する。観る者の思考を妨げるように、あるいは眠気を覚ますように。
正体不明な男が小説やら哲学書やらの中の一節をつぶやく。観る者がそれと映像場面との関係を考えるが、その関係性を絶つかのように、あるいはその思考を混乱させるかのように。故に意味不明だ。
ゴタールは、映画の「物語性」を破壊したいのか?
人の脳中のイメージは連続的でもなければ、首尾一貫したものでもない。
人のエロスも脳内で発生し展開する。故に不連続で不統一だ。
プルーストも引用されるが、今となってはどんな場面で、何を言ったのかさえおぼろげだ。
観た後に今も強い印象として残っているのは、
原色を塗りたくったような自然の風景と孤独に徘徊する犬。
そもそも登場する犬は何のメタファーだろうか。
常識的には「忠誠心」 あるいは多産から来る「性的欲望」?
問題はゴタールは犬を何のメタファーにしているのか?
そもそもそんな推測をする必要はないのか?
ただただ映像の中に在り、その中に耽溺せよ、と。
解説
テーマはシンプル既婚女性と独身男性が出会い
2人は愛し合い、口論し、叩き合う
犬が都会と田舎をさまよう
季節はめぐり
女と男は再会し
犬はふたりのもとに落ち着く
他者が個人のなかにあり
個人が他者のなかにある
そして登場人物は3人になる
かつての夫が激怒し
映画の第二幕が始まる
第一幕と同じでいて
それでもどこかが異なる
人類からメタファーへと移行し
犬の啼き声と赤ん坊の泣き声で
物語は終わる