「PUBLIC/IMAGE.METHOD」 REVIEW vol.2

KOICHIRO TSUJIKAWA×NAOKI ITO
こちらの対談は、終始伊藤さんが辻川さんをなんとかWEBの魅力に引き込み
一緒に仕事を実現させようと説得しているように感じましたw
とはいえテーマは存在、「映像の解像度」
先日のレビューにも書きましたLUMIX G1。
デジタル映像をコンパクト一眼で撮影できるようになり、
ブロードバンド世帯率がここまで普及した現代。
TVとWEBの映像フォーマットに変化が出てきているのではないか?

伊藤さんが携わった「UNIQLO MARCH」こちらのコンテンツでは、
日本に数台しか存在しない高性能超ワイドカメラ「RED ONE」を3台使い、
全長50mを超える今までにない"超ワイド"な映像を楽しむことができる。
解像度が高く、3台のカメラを1mmのずれもなく設計したため、
よっても映像が崩れないし、ずれない。
そうした考えは辻川さんの作品にも存在。
この作品も随所によりを用いている。
個人的に感じるのは、
辻川さんの作品は「よる」ことによる世界観の演出
伊藤さんの作品は「よる」ことによる情報の詳細を伝達
ミュージックビデオと企業広告という点から見ても、
上記のような違いが出ているように感じる。
それはそれで当たり前なわけで。
コミュニケーションには目的があり、
その目的にしたがって「よる」を演出している。
今後の広告業界に「よる」ことが実現されれば、
TVで流されているCMをWEBで単純にストリーミングで見せるのではなく、
WEBにいけばそのCMに「よる」ことが出来る。
どこまでも「よる」ことが出来る楽しさ。
TVCMが「よる」ことへのお題投げかけ(この部屋の謎を解け)。
WEBで「よる」ことによってそのお題を解決(よって謎を解決)。
肝は、伊藤さんもおっしゃっていた「よる」ことによって出る欲求、探索。
GoogleMapにおいても誰もがやったことがある、バーをつまんで「よる」楽しさ。
その根底には、何があるんだろう、ここに何かがあったはずという、探索欲求。
映像技術が優れてきたことにより、
映像のまた異なる1つの世界が見えてきたような。
これ、面白い。
また、GoogleStreetViewのような神的視点も面白い。
もう1つの議論は、「制限」
表現には制限がつきもの。
表現の自由を掲げながらも仕様なり、宗教なり、政治なり
様々な制限が発生する。
またそうした外部環境による制限だけではなく、
WEBというインタラクティブなメディアだからこそ発生する、
インタラクティブの制限というものがある。
単純にナビゲーションにしてもそう。
ここでこのコンテンツを動かしなさい、という制限。
YouTubeの動画プレイヤーにしてもそう。(広い意味でナビゲーションだけど)
再生ボタンはこれだよ、動画を停めるときはここだよ、という制限。
人間は自由であれば自由であるほど不便さを感じる生き物。
その制限がどれだけ心地よく、不憫さを感じさせないか。
だからこそ、記号論(アイコン)は重要だし、そうした制限を知覚によって学びながら人の行動をある意味制限しているアフォーダンスという考えも重要。
いやーこうしてみると彼らの仕事の随所に古典的な考えが存在する。
デザイン学
認知心理学
記号学
身体表現学
などなど、様々な学問に基づいて設計されている。
まだまだ学ぶことは重要。
そうかんじたセッションでした。
KOICHIRO TSUJIKAWA
NAOKI ITO

KOICHIRO TSUJIKAWA×NAOKI ITO
こちらの対談は、終始伊藤さんが辻川さんをなんとかWEBの魅力に引き込み
一緒に仕事を実現させようと説得しているように感じましたw
とはいえテーマは存在、「映像の解像度」
先日のレビューにも書きましたLUMIX G1。
デジタル映像をコンパクト一眼で撮影できるようになり、
ブロードバンド世帯率がここまで普及した現代。
TVとWEBの映像フォーマットに変化が出てきているのではないか?

伊藤さんが携わった「UNIQLO MARCH」こちらのコンテンツでは、
日本に数台しか存在しない高性能超ワイドカメラ「RED ONE」を3台使い、
全長50mを超える今までにない"超ワイド"な映像を楽しむことができる。
解像度が高く、3台のカメラを1mmのずれもなく設計したため、
よっても映像が崩れないし、ずれない。
そうした考えは辻川さんの作品にも存在。
この作品も随所によりを用いている。
個人的に感じるのは、
辻川さんの作品は「よる」ことによる世界観の演出
伊藤さんの作品は「よる」ことによる情報の詳細を伝達
ミュージックビデオと企業広告という点から見ても、
上記のような違いが出ているように感じる。
それはそれで当たり前なわけで。
コミュニケーションには目的があり、
その目的にしたがって「よる」を演出している。
今後の広告業界に「よる」ことが実現されれば、
TVで流されているCMをWEBで単純にストリーミングで見せるのではなく、
WEBにいけばそのCMに「よる」ことが出来る。
どこまでも「よる」ことが出来る楽しさ。
TVCMが「よる」ことへのお題投げかけ(この部屋の謎を解け)。
WEBで「よる」ことによってそのお題を解決(よって謎を解決)。
肝は、伊藤さんもおっしゃっていた「よる」ことによって出る欲求、探索。
GoogleMapにおいても誰もがやったことがある、バーをつまんで「よる」楽しさ。
その根底には、何があるんだろう、ここに何かがあったはずという、探索欲求。
映像技術が優れてきたことにより、
映像のまた異なる1つの世界が見えてきたような。
これ、面白い。
また、GoogleStreetViewのような神的視点も面白い。
もう1つの議論は、「制限」
表現には制限がつきもの。
表現の自由を掲げながらも仕様なり、宗教なり、政治なり
様々な制限が発生する。
またそうした外部環境による制限だけではなく、
WEBというインタラクティブなメディアだからこそ発生する、
インタラクティブの制限というものがある。
単純にナビゲーションにしてもそう。
ここでこのコンテンツを動かしなさい、という制限。
YouTubeの動画プレイヤーにしてもそう。(広い意味でナビゲーションだけど)
再生ボタンはこれだよ、動画を停めるときはここだよ、という制限。
人間は自由であれば自由であるほど不便さを感じる生き物。
その制限がどれだけ心地よく、不憫さを感じさせないか。
だからこそ、記号論(アイコン)は重要だし、そうした制限を知覚によって学びながら人の行動をある意味制限しているアフォーダンスという考えも重要。
いやーこうしてみると彼らの仕事の随所に古典的な考えが存在する。
デザイン学
認知心理学
記号学
身体表現学
などなど、様々な学問に基づいて設計されている。
まだまだ学ぶことは重要。
そうかんじたセッションでした。
KOICHIRO TSUJIKAWA
NAOKI ITO