葬式は要らない続編
「民衆の仏教葬式はどのように始まったか」
・仏教の伝来以前は死者の赴く世界は天国や地獄のイメージは無かった。(古代)
・飛鳥、奈良時代の仏教は高度な学問の体系として受け入れられ、葬式仏教の側面は持たなかった。
・法隆寺や薬師寺などは墓地を持たず檀家もいない。仏教の教えを学ぶための場であった。
・中国から密教を輸入した僧侶が神秘的な力を身に付け、国家安泰を願い、疾病、天変地異などの災厄を取り除き、祟りを抑え、個人の病を癒すことを目的とした。
・密教で信仰される仏は千手観音や不動明王など異界の存在が前提にあった。
・密教が浸透すると「浄土」という死後に生まれ変わる浄土信仰が流行する。
・浄土教信仰では罪を犯した人間が堕ちる地獄の恐ろしさが強調された。
・浄土に生まれ変わる有効な方法が念仏で「南無阿弥陀仏」と唱えることであった。(天台宗円仁)
・天台宗源信は師の著わした「往生要集」からいかにして死に臨んだら良いか具体的なマニュアルを作り、往生院という建物に病人を移し念仏を唱え、極楽往生へのシステムを構築した。(平安時代)
・平安貴族は死後、地獄に堕ちることを恐れ、極楽浄土への往生を望み、具体的に表現した物が浄土式庭園や阿弥陀堂の建立であった。(藤原頼通の平等院鳳凰堂や阿弥陀如来坐像)
・戦乱や天変地異が続き、末法の時代背景のもと、鎌倉新仏教が登場する。(浄土宗の開祖法然)
・修業を重ね仏教を理論的に学ぶことが出来ない庶民は念仏を唱えることで極楽浄土に行けると説く法然の教えに飛びつき浄土宗が広まった。
・法然の弟子の親鸞は、さらに救いを阿弥陀仏に委ねる他力本願の教えを説き、浄土教信仰は貴族から一般民衆に定着した。
・法然や親鸞は仏教の教えを念仏行による往生に集約し、仏教と死とを強く結びつけ、それを大衆化することには貢献したが、仏教式の葬式を開拓したわけではなかった。
・仏教式の葬式が開拓されたのは道元が開いた鎌倉新仏教の曹洞宗であった。(越前永平寺)
・曹洞宗第4代祖瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)は宗派の経済基盤を確立する必要もあり、密教的な加持祈祷や祭礼を取り入れた。それが死者の供養にも用いられるようになる。
・禅宗は中国で確立された仏教であり、中国の伝統的な宗教である儒教の影響を受け、先祖を敬う祖先崇拝が重視され儒教が禅宗にも取り入れられていく。
・1103年に中国の宋で編集された「禅苑清規」という書物には禅宗の葬式の方法が記されている。
・悟りを開いた僧侶の葬式方法が「尊宿葬儀法」、修業の途中で亡くなった僧侶は「亡僧葬儀法」であった。
・修業中の僧侶は完全な僧侶であるとは言えず、その立場は在家に近いことから、「亡僧葬儀法」を在家の信者にも適用した。
・これにより、亡くなった在家の信者をいったん出家したことにし、出家者の証である戒名を授けるという葬式の方法が確立された。
・仏教では死者が赴く浄土の世界を徹底して豪華で美しいものに描き出す志向があり、葬式が派手で贅沢なものになっていった。
・葬式が高いと言われる要因として、立派な浄土を模した祭壇や院居士を称する戒名料があげられる。功績、家柄、見栄などが絡んで高額になってきた。
<参考>
1.密教
大日如来を本尊とする深遠秘密の教え。加持(かじ)・祈祷(きとう)を重んじる。日本には平安初期に空海・最澄によって伝えられ、貴族などに広く信仰された。空海の真言宗系を東密、最澄の天台宗系を台密とよぶ。
2.浄土信仰
仏・菩薩の支配する浄土世界にあこがれる信仰。浄土には阿弥陀仏の極楽浄土,弥勒仏の兜率天,観音菩薩の普陀落山などがある。奈良時代には弥勒信仰と阿弥陀信仰が主流であった。平安時代,天台宗下で阿弥陀浄土思想がはぐくまれ,貴族社会で極楽浄土への往生を願う浄土教を信ずる者が多くなり,平安後期から末法思想の影響で急激に広まって一般化した。
3.円仁
平安前期の天台宗の僧。円仁は名、諡号は慈覚大師。15才の時最澄の弟子となり、入唐後五台山・大興善寺等で学ぶ。帰朝後延暦寺三世座主に任じられ、天台宗山門派の祖となった。彼によって天台宗は著しく密教化したといわれる。貞観6年(864)寂、70才。
4.源信
平安時代中期の天台宗の僧。恵心 (慧信) 僧都ともいう。寛弘1 (1004) 年権少僧都となったが,翌年辞退した。この間『因明論疏四相違略注釈』 (3巻) を,また寛和1 (985) 年には『往生要集』を著わし,初めて浄土教の教説を立てた。寛弘1年6月,延暦寺六月会の探題になったが,栄名を嫌って山門を出ず,著作,修行に専念した。同3年,一切衆生成仏を説いた名著『一乗要決』 (3巻) を著わし,天台宗義によって法華の一乗思想を解説した。
5.藤原頼通
[992~1074]平安中期の公卿。道長の長男。後一条・後朱雀・後冷泉3代の天皇の摂政・関白となり、父とともに藤原氏全盛期を現出。平等院鳳凰堂を建立、宇治の関白と称された。晩年に出家。
6.法然
[1133~1212]平安末期の浄土宗の僧。美作の人。諱は源空。比叡山の黒谷で天台および諸宗を学び、安元元年(1175)称名念仏に専念する立場を確立し浄土宗を開いた。洛東吉水に草庵を結んで布教し、信者の増加に伴って迫害され、一時讃岐に流されたが、後に許されて京に戻り、東山で入寂。勅諡号は円光大師。
7.親鸞
1173-1263* 鎌倉時代の僧。
承安3年生まれ。日野有範(ありのり)の子。妻は恵信尼(えしんに)。浄土真宗の開祖。比叡山で修学し,建仁元年源空(法然)の門にはいり,専修念仏に帰依。念仏教団禁圧により越後に流罪となる。建暦元年ゆるされ,関東で布教。60歳ごろ京都にもどり,著述と門弟の指導につとめた。絶対他力・悪人正機説をとなえ,肉食妻帯の在家主義を肯定した。弘長2年11月28日死去。90歳。
8.道元
1200-1253 鎌倉時代の僧。
正治2年1月2日生まれ。日本曹洞(そうとう)宗の開祖。13歳のとき比叡山で出家,ついで明全に師事。貞応2年師とともに宋にわたり,如浄に曹洞禅をまなぶ。嘉禄3年帰国。のち京都から越前にうつり,寛元2年大仏寺(のち永平寺)を創建。只管打坐を説き,「正法眼蔵」などを執筆した。建長5年8月28日死去。54歳。号は希玄。
9.瑩山紹瑾
[1268~1325]鎌倉時代の禅僧。曹洞宗中興の祖。越前の人。幼時より仏門に入り,永平寺の孤雲懐弉,徹通義介に師事し,永仁3 (1295) 年,義介より道元の伝法衣を受け,義介を継いで大乗寺に住した。応長1 (1311) 年,明峯素哲に法衣を伝えて加賀の浄住寺に移り,また能登の永光寺を開いた。さらに元亨1 (21) 年,能登の僧定賢から寺を寄進され,律院を禅寺に改めてその開山となった。これが総持寺であるが,のち峨山韶碩 に譲って永光寺に住し,ここで死んだ。『語録』『伝光録』の著がある。
10.儒教
孔子の教説を中心とする思想,教学,祭祀の総称。中国仏教,道教とともに中国における中心的な哲学体系。また,仏教とともに東洋文化を形成する基盤となっている。その教説は,唐代以前は五経(『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』)を中心とし,宋代以後は四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)を重視する。つまり,宋代 11世紀頃を境に,内容に大きな変化があった。宋代以降のいわゆる新儒教の中心課題は『大学』にある「明徳を明らかにし,民に親しみ,至善に止まる」という 3綱領と,それへの道筋としての 8階梯(格物,致知,誠意,正心,修身,斉家,治国,平天下)によく示されている。すなわち「修己治人」(自己を磨き,その完成された徳をもって人を治める)である。日本には 4~5世紀頃に伝来し,十七条憲法,大化改新の律令制の理念などに大きな影響を与え,大宝律令制定後の大学寮においても必須科目とされたが,仏教思想が支配的であったため教学として特に目立った展開はみられなかった。しかし,近世初期に藤原惺窩が出て以来,林羅山,山鹿素行,伊藤仁斎ら多くの儒家が輩出して,江戸時代にいたってめざましい展開がみられた。
11.戒名
戒を受けて仏門に帰依した者に与えられる法号。もとは法名とのみいわれた。のち浄土真宗などの無戒の宗が出て,真宗の法名と受戒者の法号とを区別するために戒名と呼ぶようになった。現在では死後,師僧から与えられる法号という意味に用いる。
宗派によって異なる場合もあるが、男性は「信士(しんじ)」「居士(こじ)」「院居士(いんこじ)」、女性は「信女(しんにょ)」「大姉(だいし)」「院大姉(いんだいし)」とランクが上がっていく。日本消費者協会の昨年の調査では、葬儀で戒名料や読経料として寺院に払った費用総額は全国平均で51万4千円。東北は61万6千円で、九州・沖縄の29万6千円の倍以上だった。










