寛政10年(1798)8月の「塩飽佐奈木嶋切支丹宗門御改帳控」は当時の戸籍簿みたいなもので戸主、年齢、家族構成が書かれています。
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当浦中、総人数合わせて1043人 内 506人男 537人女
右の通り真言宗、拙僧の旦那に紛れなく御座候、もし、しかるべき
宗旨施し、異議これ有らば、拙僧きっと出で申し訳
つかまつるべく候、後日のため寺請状、くだんのごとし
泊浦(塩飽本島)正覚院
佐柳島 乗蓮寺 印
当浦中、総人数合わせて1043人 内 506人男 537人女
右の通り真言宗、拙僧の旦那に紛れなく御座候、もし、しかるべき
宗旨施し、異議これ有らば、拙僧きっと出で申し訳
つかまつるべく候、後日のため寺請状、くだんのごとし
泊浦(塩飽本島)正覚院
佐柳島 乗蓮寺 印
右の通り、庄屋・組頭・五人組合、吟味つかまつり相違これ無く当浦中
御法度宗門の者無く御座候 以上
組頭 久米右衛門
庄屋 喜平太
御法度宗門の者無く御座候 以上
組頭 久米右衛門
庄屋 喜平太
乗蓮寺 寛澄 印 歳三拾六
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キリスト教が禁じられていたこの時代には住民はどこかの寺の檀家となり、キリスト教徒でないことを幕府役人に知らさなければならなかったのです。
塩飽の各島には幾つもの寺がある島もあります。幸い佐柳島には寺は乗蓮寺1カ所だけなので全島民がこの1冊に網羅されています。
戸数は191戸。住宅図面と戸主を照らし合わせると本浦が134戸、長崎が56戸、寺が1戸です。
たまたまこの一冊が寺ではなく庄屋の子孫の家に保管されていました。これは控であり提出用と2冊あったものと思われます。ほかの年は控を取らなかったのか残っているのは1冊だけなのです。
ネットで作成頻度を調べてみましたがよく解りませんでした。
「改帳の作成は、町村毎に名主や庄屋、町年寄が毎年行うこととされていたが、後に数年置きとなった地域もある。改帳には、家族単位の氏名と年齢、檀徒として属する寺院名などが記載されており、事実上の戸籍として機能していた。」
「改帳の作成は、町村毎に名主や庄屋、町年寄が毎年行うこととされていたが、後に数年置きとなった地域もある。改帳には、家族単位の氏名と年齢、檀徒として属する寺院名などが記載されており、事実上の戸籍として機能していた。」
2012年に庄屋の子孫であるS家の当主に許可を得てデジカメで全ページの撮影をしたまま長く放置していましたが、最近になってやっと解読が進むようになりました。崩した字が読めず長く足踏みが続きました。
220年前の個人情報ですが都会への人口流出が進み今はなかなか先祖を辿れないのが実情です。しかし、過去帳などと照合すると結構現在とつながってきます。また、同じ時代の住宅地図が別に存在していますのでこの三点を合わせて分析するとさらに確度が上がります。
最近ではこんな事例がありました。「流せ1件日記」という古文書が旧家から出てきたものを町が保管していました。この家は代々「傳五郎」を名乗っていますが、明治で終わったのが8代目でした。高見島の鯛網師が急な漁場争いのトラブルを告げに来た内容でした。この日記を書いたのは戸主で5代目の傳五郎か、13年後の出来事ですから30歳になった息子の6代目かも分かりません。戒名しか分からなかった女房の名前も判明しました。
もう一つ分かったことが有ります。2年後に当時無人島であった岩黒島へ開発移住した7家がこの宗門御改帳で判明しました。全員本浦からの移住でした。
最近の佐柳島の所帯数と人口は随分減りました。




