こんにちは
長野県諏訪在住 やましたひでこ公認
断捨離®︎トレーナー講習生
宮坂夏枝です
藤井文トレーナー 右は次女
怒涛の断捨離が始まった日
今日から私の
怒涛の断捨離ストーリーを
連載でアップさせていただきます。
「怒涛」と、名付けた理由は2つあります。
1、2023年、断捨離トレーナーについて学び始めてから約1年の集中断捨離。多くのものを手放し家の中ががらりと変わりました。こんな貴重な体験はもう二度とないだろうと思えるほど大きな変化でした。
2、実際に断捨離に出会ったのは2011年頃。まだトレーナーのいない時代で、自己流ではありましたが、田舎ゆえモノの量は半端なく、本当に夥しいモノを手放してきたのです。
時系列で追い、最初の出会いからお話しします。
私が最初に断捨離に出会ったのは2011年ころでした。母が亡くなった翌年、多くの遺品をどう整理するか戸惑っていました。
「断捨離」と言う本に出会ったのもその頃です。
その後、ひでこさんが車で1時間ほどの地方都市に講演に来られました。
感動した本の著者が来ると言うことで、喜んで聞きに行ったのを覚えています。
その頃はまだ今のようなブームではなくひでこさんが各地に断捨離の種を蒔くため講演されていると言う印象でした。
2011年頃 ひでこさんから頂いた名刺
古い学校の小さな教室の一室に入る位の人数でした。写真は、多分、その時ひでこさんからいただいた名刺だと思います。その後、これほど近くでひでこさんを見たのは、トレーナー講習が始まってから、十数年後ですので。
翌年、東京のワンデイセミナーに行きました。この時は多くの人が集っていました。受付には檀葉子さんがおられました。彼女のブログを読んでいたので挨拶をしたのを覚えています。ただこの頃はまだトレーナーの存在はありませんでした。
この頃いろいろなものを手放したと思うのですが、何が最初だったかは残念ながら覚えてはいません。
なぜなら、田舎は物置や蔵などに放置されたものが山のようにあり、節目節目、断捨離に出会う前から、たくさんのモノの処分をして来たのが私だったからです。けれど、大量のものをどんなに処分しても、切り崩せるモノの山はわずかのように思えました。
その後、父も施設に行くようになり、両親が住んでいた家を1人で断捨離するようになります。父はまだ生きておりますので、全てを処分する事はせず、部屋に出ているものが、収納に収まるレベルの断捨離でした。自営業を営んでいて、片付ける間もなかったその家にはたくさんのものが堆積していました。
その頃、ひでこさんが「町屋」を一軒断捨離したと知り、ひとりで、この家を断捨離してみようというモチベーションに繋がりました。何日も泊まり込んで断捨離した結果、当時、結婚することになった次女夫婦の住まいとなりました。
もしも、その時私が断捨離していなければ、次女たちは別の住まいを見つけたと思います。今、次女、一家と隣同士で、孫とも行き来できるこの生活は、当時の断捨離がなければ実現しなかったかもしれません。
その後、その家をリフォームするため、娘夫婦と私3人で何日もかけて断捨離をしました。1人での断捨離に比べ、家族揃っての断捨離は楽しいイベントのようでした。
そんな時、過去、妹と一緒によく両親の家を片付けたことを思い出しました。
物の量は半端なかったのですが、ある程度スッキリ片付いた後は大きな達成感がありました。自分1人でも達成感は得られますが、仲間と一緒の断捨離は本当に愉しいと思いました 続く
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