「三国志」語りシリーズ。「魏」「呉」「蜀」の建国と滅亡の歴史を見てきて、前回は「晋(西晋)」の結末をご紹介して、「三国志の終わり」は見届けたかんじになりました。
今回は、その真反対のこと…つまり、「三国志の始まり」について、語ってみようと思います。
すなはち、一言で言ってしまえば、こういうことです。
『三国志』の始まりは「黄巾の乱」というのは何故なのか?
別に掘り返さなくてもいいことを、わざわざ掘り返す。
道楽ならば、それも一興よな(仕事や人間関係でやっちゃダメよ)
「黄巾の乱」は、『三国志』前半の主人公・劉備が、関羽・張飛の2人の豪傑と義兄弟の契りを結ぶ「桃園の誓い」のきっかけの1つになりました。
なので、三国志の始まりとしては間違いないと言えますが、あくまでこれは「劉備主役の物語の中」での話。
左:張飛@康凱さん
中:劉備@于和偉さん
右:関羽@于栄光さん
2010年『三国志 Three Kingdoms』より
歴史的には、「黄巾の乱が起きたことで、後漢の威信は失墜し、各地で群雄が割拠するようになったから」とされています。
果たして、その通りなのか?
ざっくり「黄巾の乱」の経緯を見ると、こんな感じ。
確かに、初期には「黄巾党」によって多くの郡が占領されたり、波才などによって朝廷軍が撃退・包囲されてピンチになったりしています。
しかし、張角や張梁、張宝らの幹部は、184年の年内、8か月余りで鎮圧されました。
その後、残党が各地で散発的に荒らしまわったりもするんですが、全体としては大したことはない…というと過小評価になる?
ともあれ、これだけのことで「群雄割拠の時代」に突入する、というかんじは、あまりしないなぁ…と思います。
群雄割拠は、独裁政権を担っていた董卓が呂布によって消されて(192年)、曹操が献帝を擁して台頭してくるあたり(196年)からのイメージ。
「黄巾の乱」からは、ずいぶんと時が経っています。
これで「黄巾の乱」は「三国志」の始まりだと言えるのだろうか…?
ここで登場するキーワードが、「刺史(しし)」。
三国志を見たり読んだりしたことがある人なら、どことなく記憶に残っている言葉なのではなかろうか。
「刺史」というのは、「州」の長官のことを指します。
「三国志」の時代には13の州がありました。
(最初の数です…時代が過ぎるにつれて、いくつか増えています)
- 司隷(しれい)
- 豫州(よしゅう)
- 冀州(きしゅう)
- 兗州(えんしゅう)
- 徐州(じょしゅう)
- 青州(せいしゅう)
- 荊州(けいしゅう)
- 揚州(ようしゅう)
- 益州(えきしゅう)
- 涼州(りょうしゅう)
- 幷州(へいしゅう)
- 幽州(ゆうしゅう)
- 交阯(こうし)
「州」は、いくつかの「郡」が集まって出来ています。
日本で例えるなら、「東北地方」が「州」で、「青森県・岩手県・秋田県・宮城県・山形県・福島県」が「郡」というかんじ。
この「郡」を治める長官を「太守(たいしゅ)」と呼びます。
で、いくつかの郡が集まって州…なのだから、「太守(郡の長官)」よりも「刺史(州の長官)」の方が上と思ってしまうのですが、実際には逆。
「州刺史」よりも「郡太守」の方が上でした。
管轄エリアが広い「州刺史」よりも、狭い「郡太守」の方が偉い…この逆転現象が起きている原因は、役割の違いにあります。
領地における「徴税」や「徴兵」などの行政・軍事、いわゆる「実際に統治している」のは「郡太守」の仕事。
「州刺史」は、自分が管轄している州の「郡太守」たちが不穏な動きをしていないか監視するため、つまり監査役として置かれているのです。
もしも地方で反乱が発生した時は、州刺史はほとんど何もせず(できず)、郡太守が軍を率いて鎮圧にあたるわけです。
「黄巾の乱」は各地で同時多発的に反乱が起きました。
これに対して、後漢朝廷が当初は対処しきれていないように見えるのは、「郡太守」の対応レベルを超えているのに「州刺史」が何もできなかったことも大きい…と言われているみたい。
結局、中央政府から朝廷軍が直接派遣されたので、事態は何とか平定されたのですが、「州刺史・郡太守」という制度は問題視されるようになります。
そこで、「州全体の行政と軍事を管轄する役割が必要だよね」という献策が出され、新たに「牧(ぼく)」という役職が設けられることになりました。
「州牧」というのも、三国志では耳馴染みのある言葉ですよねw
袁紹(=冀州牧)、曹操(=兗州牧)、劉表(=荊州牧)など、多くの登場人物が「州牧」として登場しています(もちろん、劉備=徐州牧も)。
しかし…「州」なんて広い範囲を管轄するひとに「行政」と「軍事」の両方の権力を与えたら、その先どうなるかは分かろうというもの。あまりに権限が強過ぎてしまいます。
事実、「州牧」は管轄内の「郡太守」に、勝手に部下を任命するようになり、やがて地方軍閥化して「群雄割拠」の時代を迎えることになってしまうのでした。
「黄巾の乱」が「三国志の始まり」と言われるのは、乱のインパクトもあるんでしょうけど、「州牧の創設」という制度史的な転換が、群雄割拠を呼び込んだから…とも言えるわけですねー。
というわけで、「黄巾の乱」は『三国志』の始まりであり、それは後漢の制度を大きく変えたからなのです…について、駄弁ってみました。
以下、余談。
余談、その1。
「州牧」の持つ権限の強さの危険性は、後漢朝廷も分かっていたようで、「州刺史」から「州牧」への昇格は、13州で一斉には行われず、必要に迫られた地域から逐次、設置されていきました。
その皮切りになったのは、「幽州」と「益州」。
幽州では、「張純の乱」が起きています(187~189年)
中山郡太守・張純が、烏桓族(北方異民族)酋長の丘力居(きゅうりききょ)を呼び込んで起こした反乱で、後漢朝廷は公孫瓚(こうそんさん)を差し向けて鎮圧にあたりました。
公孫瓚は「白馬義従」と呼ばれる白馬揃えの親衛隊を率い、その勇名は「白馬長吏」と称されて烏桓族や鮮卑族にも恐れられていたという北方の勇将。
しかし、公孫瓚はゴリ押しを繰り返すばかりで、押したり押し返されたりしながら膠着状態に陥っていて、反乱平定には至りませんでした。
そこで、後漢朝廷は、皇族の劉虞(りゅうぐ)を「幽州牧」に任命して、現地へ派遣(188年)
劉虞は、以前「幽州刺史」としてこの地に赴任したことがあり、仁義を以て接したため北方民族から大変慕われていた人物でした。
そこで、これまでの公孫瓚の強硬策から、懐柔策に戦略を180度転換。
丘力居を説得して張純と離間させ、孤立した張純を討ち、乱の平定に成功しました。
しかし、功績を持っていかれる形になった公孫瓚との仲は険悪になってしまいます。
劉虞と公孫瓚は互いに憎しみ合うようになり、ついには劉虞が討伐を決意。
これに対して公孫瓚は人民を盾に使う戦術を取ったため、非情になれず攻めきれなかった劉虞は敗北。捕えられて「皇帝を僭称した」として処刑されてしまいました(193年)
すると、劉虞を慕っていた北方民族が、一斉に公孫瓚に反発。
ただでさえ袁紹との戦いで忙しい公孫瓚は、追い詰められていくことになってしまいました。
それにしても、人民を盾に使うわ、かつての上司を勝手に処刑するわ…。
『三国志演義』では劉備に世話を焼く良き兄貴分として描かれる公孫瓚ですが、史実では中々のクズっぷりですねw
(そして、「幽州牧」という存在が公孫瓚を追い詰め逆襲させ、北方民族の反感を買って窮地に陥り、劉備の運命をも変えてしまったわけですね…)
一方、益州の方は、ちょっと事情がフクザツです。
益州刺史の郤倹(げきけん)が非常に評判が悪く、益州の民心・治安回復のために、皇族の劉焉(りゅうえん)が、郤倹を取り調べるという名目で「益州牧」として赴任することになりました。
ちなみに、この劉焉は「牧」の創設を時の帝・霊帝に進言して実現させた人。
中央政府に嫌気がさしていた彼は、地方で自立したいという野望を持っていて、そのために「牧」を提案したのでは…とも言われる野心家です。それが実現したわけですなー。
劉焉が益州に入るより前に、事の元凶の郤倹は、「黄巾賊の残党」を自称する馬相(ばしょう)が起こした「馬相の乱」によって落命していました。
そのまま、馬相は「ここ益州を独立国とする!」と宣言して天子を僭称したのですが、蜀の豪族・賈龍(かりょう)の果断な軍事行動によって鎮圧されます(188年)
こうして危機的事態こそ脱しましたが、この一連の事態で益州は荒廃してしまい、賈龍は事後にやってきた益州牧の劉焉を迎え入れ、当地の復興をはかろうと考えました。
劉焉は入蜀を果たすと、さっそく「独立国構想」の実現に向けて動き出します。
まず、董卓の恐怖政治で混乱する都方面から逃れて来る流民を受け入れて、「東州兵」という私兵集団を組織します。
そして、新興宗教「五斗米道」の指導者・張魯(ちょうろ)の母と昵懇になると、張魯に漢中を制圧させ、さらに「蜀の桟道」を焼き落とさせました。
桟道は、数少ない都との間の連絡路。そして漢中は蜀と都の中間地点。
劉焉は後漢朝廷に対し「張魯が漢中を占拠して桟道を焼き払ったので連絡に支障が出ています」と報告し、以後ぱったりと報せを寄越さなくなりました。
こうして、内情を都に知られないようにした上で、益州豪族の弾圧に着手。
自分を迎え入れてくれた賈龍をも処刑し、益州を支配下に置きます(191年)
ここまでは順調だったのですが、西涼の馬騰(馬超の父)が長安遠征を企てたので、それに加担したところ、これが失敗して息子を2人も失うことになってしまいました(193年)
悲痛な失意の中、劉焉は死去(194年)
末子の劉璋(りゅうしょう)が後継者として立てられます。
劉璋は、後に劉備によって蜀の地を奪われてしまうのは、『三国志』ではお馴染みですかねw
劉璋はよく「暗愚な君主」という評価をされるのですが、父が独立国を作るために用いた「東州兵」「張魯」が言うことを聞かず、そして弾圧した「益州豪族」の扱いにも苦労したという、「父の負の遺産」を受け継いでしまったことも考慮に入れると、なんだか可哀想な人なんですよね。
というわけで、初期の「州牧」についてのお話でした。
劉備も曹操も出て来ないので、話自体はマイナーなんですけど、後々の展開を絡めて考えると、結構重要な出来事だと思うのですよねー。
余談、その2。
「郡太守」が治めていた「郡」には、同じ意味なのに呼称が特殊になる例が、2つあります。
それは「国(こく)」と「尹(いん)」。
「郡」は、朝廷から執政官として「太守」が派遣されて統治されています。
これに対し「国」は、皇族が「王」として封じられ、もらい受けている領地を指します。
「王」は任地には赴かずに都に留まり、代官を派遣して統治させるのが普通です。
この「王」の代わりに派遣される執政官を「相(しょう)」といいます。
なんだか、日本の室町時代の「守護」と「守護代」みたいなかんじですねー。
というわけで、「郡太守」と「諸侯相」は、実は同じことなんですね。
劉備も、公孫瓚の世話になっていた時代に、袁紹への牽制として平原国(青州)の相に任命されています(この時、公孫瓚の配下に居た趙雲を借り受け、親密になっていくわけですな)
もう1つの「尹」は、前漢の帝都「長安」と、後漢の帝都「洛陽」がある「郡」のこと。
洛陽があるエリアは「河南尹(かなんいん)」、長安があるエリアは「京兆尹(けいちょういん)」と呼び、特別扱いされているのです。
「尹」を管轄する「郡太守」にあたる役職は、同じく「尹」。
洛陽は「河南尹」が、長安は「京兆尹」が、それぞれ民政を担っているわけですね(ややこしい)
ちなみに、洛陽と長安がある州エリアは「司隷(しれい)」という名なのですが、ここを管轄する長官は「司隷刺史」ではなく「司隷校尉(こうい)」という特別な名称で呼ばれます。
ついでに言うと、「司隷」には「司隷校尉部」という特別な正式名称があります。「司隷州」ではないんですねー。
(ついでのついでに、他の「州」と呼んでいるエリアも本当は「刺史部」と呼ぶみたい。例えば益州なら、「益州刺史部」が正式名称となるわけですな)。
「司隷校尉」には、袁紹や曹操も就任したことがありますが、なんといっても代表格と言えば鐘繇(しょうよう)。
前々回に紹介した蜀を滅亡させた総大将・鐘会の、父にあたる人物です。
鐘繇は、曹操によって司隷校尉に任命されるのですが、当時の曹操は中原に都を構えていました(=許昌。兗州の潁川郡にありました)
この地は豊かなのですが、敵に囲まれている「四戦の地」で、北・南・東は袁紹や呂布や劉備や袁術への対応に忙殺され、西は馬騰・韓遂らが勢力を持っていて、非常に多忙で重要な時を迎えていました。
そこで、西側だけでも他人に任せようと、献帝を長安から連れ出して曹操の元へ連れて来た鐘繇を、「司隷校尉」に任じて長安に赴任させることにしました。
すると鐘繇は、長安周辺を勢力下に置いていた馬騰・韓遂らを説得して、なんと味方に引き入れることに成功。
袁紹との決戦「官渡の戦い」の時には軍馬を集めて送り、袁紹の死後に袁家の残党が復讐戦を仕掛けてきた時には、馬騰と韓遂を用いて撃退しています。
この有能ぶりには曹操も大喜びで、信任も厚かったと言われます。
後漢→魏→晋と時代が進むと、前回の記事でも紹介したように、北方異民族の独立を許してしまい、侵略されて洛陽も長安も陥落し、晋は一旦滅亡。
長江の南に逃げ去り「東晋」が立ちますが、「司隷」を失ってしまったので、この時に「司隷校尉」という役職は名実ともに消滅となりました。
ちなみに、劉備が建てた蜀は「司隷」を支配下に置いていないのですが、「司隷校尉」の役職名を使用しています。恐らくは、「司隷(=長安と洛陽=漢王朝)を取り戻す!」という意欲の表れなんでしょうね。
任命されたのは、なんと張飛。もしも関中を取り戻せたら、その地は張飛に治めさせる予定だったんですかね(司隷に張飛、荊州に関羽、劉備は益州…な、なんか三国志ロマンが…あふれるっ)
張飛が横死を遂げた後は、諸葛亮が「司隷校尉」に任命されています。
諸葛亮の遠い祖先・諸葛豊(しょかつほう)は、前漢の11代・元帝(劉奭。劉邦の仍孫…7代後裔)の御時に司隷校尉に抜擢されています。
時期は不明ですが、元帝は前48年~前33年の在位なので、約250年ぶりに先祖と同じ役職を得たことに。諸葛亮の気持ちは、どんなかんじだったんでしょうかねー。
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