『三国志』の始まりは「黄巾の乱」というのは、大体合っているし、市民権を得ていると思う。

 

けれども、『三国志』の終わり…となると、どうだろう。

 

「秋風五丈原(諸葛亮の陣没=後半主人公の死去=234年)」と言う人もいるだろうし

「三分帰晋(晋の天下統=三国時代の終わり=280年)」と言う人もいるでしょう。

 

ならば、「晋の終わり」と言う人がいてもおかしくないのではなかろうか。

 

「ボクたちワタシたちの魏・呉・蜀を滅ぼしてくれた司馬氏と晋の行く末を見届けてやんよ」

 

三国の夢を受け継いだ司馬氏が建てた国がどうなっていくか、そこまで見てこそ、満足して立ち去る瀬もあるのだと、ワタクシは思います。

 

というわけで、魏呉蜀の「あれからの歴史」を紹介して終幕した三国志語りシリーズですが、最後にオマケとして「晋」の行く末を見届けて、本当の幕引きにしようという試みです。

 

勝手にアンコールということなのかもしれない(笑)

 

司馬懿@倪大紅さん

2010年『三国志 Three Kingdoms』より

 

先に成り行きを言ってしまうと、「晋」は初代皇帝・司馬炎の死後、大規模な内乱が起きてしまい、その武力に使った異民族を抑えきれなくなって、304年の「漢」建国を皮切りに異民族国家が次々と独立。

 

311年には「漢」の軍勢により王都「洛陽」が陥落し、316年には「長安」も占拠されました。

 

最後の皇帝・司馬鄴(しばぎょう。愍帝)は捕えられた後に処刑されて、晋は4代37年で滅亡となってしまいます。

 

その後、司馬炎の従甥(従兄弟の子)にあたる司馬睿(しばえい)が、赴任先だった「建康(=建業。皇帝になった司馬鄴と名前が被るので改称)」で即位し(元帝)、晋は江南の地で一応、復活します。

 

江南に返り咲いた晋は、一旦滅亡した晋と区別して「東晋」と呼ばれる(それまでの晋は「西晋」とされる)のですが、「東晋」はもはや歴史の主人公ではありません。『三国志』における「後漢」みたいなポジション。

 

それでも、420年に劉宋に禅譲するまで、11代103年続きました。

途中で簒奪されて1年ほど中断がありますが、西晋よりも長命だったんですねー(影は薄いけど)

 

 

「東晋」については別の機会に譲るとして、今回は「西晋」が滅亡するきっかけになった、武帝(司馬炎)没後に起きた晋の内乱について見てみます。

 

この内乱は、歴史上では「八王の乱」と呼ばれます。

 

「八王の乱」は「8人の王が互いに蹴落とし合った内乱」で、登場人物がほとんど「司馬さん」。

 

ややこしいので、系図を作って、さらに記号もふってみました。多少分かりやすくなるかな…?

 

 

初代皇帝・司馬炎(武帝)は、呉を滅亡させて天下を統一すると、気が緩んだのか政治に興味がなくなってしまいます。

 

後宮に5千人の美女を集め、さらに最期の呉帝・孫晧(末帝)の後宮にいた5千人の美女も連れてきて合併させ、そこに入り浸りました。

 

1万人の女の園を運営維持するコスト、どれくらいかかったんでしょうね…。

晋は始まった途端に退廃的な雰囲気がにおっていました。

 

ちなみに、司馬炎は夜伽させる相手を「羊さん」に選ばせていたそうな。

 

すなわち、羊を連れて(羊に連れられて?)後宮を巡り、それが止まった部屋の女性と夜を明かした…というわけ。

羊は動物ですから、政治的意図も忖度もない。そのランダム性まで含めて女遊びを楽しんだ…ということですね。

 

ただ、羊は動物ですから、生理的欲求には素直オブ素直。

これを利用して、女たちは寵愛を得るために、羊の大好物である塩を自分の部屋の入り口に盛って、羊を引き留めようとした…という素敵エピソード(?)が、千客万来の風習「盛り塩」の由来になっています。

 

(よく「牛」って紹介されますけど、「羊」なんですよな。牛なんてデカい動物を後宮で連れ回すかっていうと…ねぇ。体力あるから暴れたら大変だし)

 

そんな自堕落を満喫した司馬炎でも、皇太子の司馬衷(しばちゅう)は、「こいつ後継者にして大丈夫?」と心配になったという資質の持ち主だったそうな。

 

飢饉で民が苦しんでいると聞くと「米がないのなら肉粥を食べれば良いではないか」と、どこぞの(ハプスブルグの・笑)姫君のようなことを言ったり、庭園でカエルが鳴いているのを聞いて「あれは仕事で鳴いているのか?遊びで鳴いているのか?」と側近に尋ねたり、ちょっと頭のネジが…という人でした。

 

衛瓘(えいかん。蜀討伐後に鄧艾を殺害した人)なんかは、「あの御方が座るかと思うと、玉座の椅子が可哀想(意訳)」と漏らし、司馬炎に考え直すように進言までしています。

 

そんな司馬衷が皇太子でいられたのは、おそらく理由が2つあって、1つは皇太子妃のおかげ。

 

彼女の名は賈南風(かなんふう)。

 

司馬昭の腹心・賈充(かじゅう。魏の4代・曹髦が殺害された時、皇帝弑逆の罪をぜんぶ成済に押し付けて司馬昭を守った人)の娘で、これがまた権力欲が強くて策謀大好きという困ったお嬢ちゃん(笑)

 

当初、「背が低くて色黒で嫉妬深いから」と、司馬炎は皇太子妃に迎えるのに難色を示したというので、小麦色の肌の小柄な少女だったんでしょうか(この時、衛瓘の娘が有力候補だったそうで、賈南風と衛瓘のそりが合わなかった片鱗が見えていますね)

 

賈南風は、司馬炎が息子の資質を見極めようとテストをした時、裏工作を行って夫にカンニングさせ、見事に合格させて、皇太子の座から転がり落ちるのを防いでいます。普通にやらせていたら、きっと落第していたでしょう(笑)

 

もう1つは、司馬衷と淑妃(側室)との間に生まれた子の司馬遹(しばいつ)。

 

父に似ず頭脳明晰で利発さ満載。司馬炎はこの孫を大層可愛がったそうで、次の次にこの子が即位する…そこに希望を託していたと言われます。

 

日本の平安時代、孫の守仁親王(後の二条天皇)に期待した鳥羽法皇が、「帝の器ではない」と見限っていた雅仁親王(後白河天皇)を即位させたのと似てますねー(唐突に『平清盛』ネタ)

 

 

290年4月、司馬炎が56歳で崩御すると、司馬衷が31歳で2代晋帝に即位(恵帝)

 

最初に権力を握ったのは、外戚(司馬衷の母方の縁者)となっていた楊氏でした。

これが皇后となった賈南風には面白くありません。

 

「晋は私のものになると思ったのに…何なのよアイツら。夫を皇位に就けたのは私よっ」

 

そこで、楊氏の排除を目指すべく、司馬一族の重鎮で楊氏と対立していた司馬亮(しばりょう(B))を自陣営に誘ったのですが、何かを嗅ぎ取ったのか、応じたフリをして動きませんでした。

 

仕方がないので、今度は夫の異母弟・司馬瑋(しばい(A))を引き込みます。

 

楊氏は勇猛果断で武略に優れる司馬瑋を警戒し、手元に置いて監視したいと思っていたのですが、そこに「入朝したい」と申し出たので、渡りに船とばかりにそれを許可してしまいます。

 

それから2ヶ月後の291年3月。賈皇后と司馬瑋が結託し、クーデターを決行。

楊氏は謀反をでっち上げられて族滅させられてしまいます。

 

ここに、賈氏の天下がやってきた…かと思ったのですが、司馬衷は、司馬亮と衛瓘に朝政を主導するように命じます。

 

「なんであの2人なのよっ。司馬亮なんて私の誘いを棒に振ったジジイだし、衛瓘は即位前の夫を小馬鹿にしたヤツじゃないのっ」

 

291年6月。賈南風は「司馬亮と衛瓘の逮捕を命じる詔」を夫に作らせて、司馬瑋に下します。

 

「よっしゃ」とばかりに司馬瑋が2人を誅殺すると、すかさず「偽物の詔を作って司馬亮と衛瓘を勝手に誅殺した」として、司馬瑋を捕え、処刑。

司馬瑋は泣きわめきながら詔を見せて冤罪を訴えましたが、もはや周囲もどうすることもできず、涙して頷くしかなかったと言います。21歳没。

 

賈南風は、わざとらしく司馬亮と衛瓘の名誉を回復し、邪魔者をすべて排除したことでようやく自分の天下が訪れました。

 

賈氏の天下では、甥の賈謐(かひつ)と大叔父の郭彰(対蜀で活躍した郭淮の弟)の権勢は皇帝を凌ぎ、群臣が度を超えて追従するほど(「後塵を拝す」の語源)

 

この3人が好き勝手やって国政は混乱した…かと思いきや、放蕩には走ったものの政事については張華・裴頠・賈模といった賢臣たちに全て丸投げしたので、かえって安定の時代を迎えたそうです。

 

このまま時が過ぎれば、意外と晋は長持ちしたかもしれません。

しかし、「八王」はまだ2人しか出ていません(笑)

 

次の悲劇は、皇太子の司馬遹。華南風の嫉妬深さ・陰湿さ・残虐さが、今度は皇太子に向けられて、新たな地獄の蓋が開くことになります。

 

 

祖父・司馬炎に期待された「賢い子」の司馬遹ですが、大人になるにしたがって学問が好きではなくなり、近臣と遊び惚けるようになっていました。

 

これには、司馬遹を遊興に耽らせて評判を落とそうと考えた賈南風が、布石として遊び相手の宦官を差し向けていたから…とも言われています。

 

司馬遹は賈南風の子ではありません。そして、嫉妬深くて陰湿な賈南風を嫌っていたので、もしも司馬衷の後に彼が皇位を継いだら、賈氏は危うくなってしまいます。その先手を打っていたわけですね。

 

ある日。司馬遹に「父帝が病になった」という報告が入ったので、とりあえず見舞いに出向いたところ、別室へ案内されて酒を大量に振る舞われます。

お酒が大好きになっていた(汗)司馬遹は勧められるままに呑み、酔っ払ってしまいます。

 

そこに、賈南風の意を汲んだ文官がやって来て、「神さま、どうか皇帝と皇后が廃され、新帝が立てられますように」という祈願文を書くよう懇願します。

深酒が過ぎて状況が分からなくなっていた司馬遹は、言われるがままに書いてしまいます。「よく分からんけど書けばいいんだな。うぃーひっく」

 

この文章を手に入れた賈南風は、さっそく司馬衷に密告。

299年12月。司馬遹は謀反の罪で処刑となるところを、百官が助命嘆願したために、廃太子されて庶民の位に転落。賈南風は後顧の憂いを断つことに成功しました。

 

ここで登場するのが、司馬倫(しばりん(C))

 

司馬遹の側近が廃太子に憤慨し、太子の復帰を画策して司馬倫に助力を頼んできたのです。

 

「皇太子を復位させて権力を握ろうかな」と、司馬倫はこれに応じるのですが、ブレーンの孫秀はそれを制止します。

 

「このような計画があると、わざと賈南風に教えましょう。彼女は必ず司馬遹に手をかけるはず。その罪で賈南風を処罰すれば、両方を始末することができます」

 

「それはいい」と、司馬遹復位の企てを密告すると、驚いた賈南風はすぐに手を下し、医者を派遣するふりをして司馬遹を撲殺させました。23歳没。

 

300年4月。司馬倫は司馬冏(しばけい(D))らと謀り、宮中に突入。

 

クーデターにより賈南風を捕え、賈氏一族を粛清。

賈南風は幽閉先で毒酒を下賜され、自害に追い込まれました。43歳没。

 

賈南風の最期の言葉は、中々に示唆を含んでいます。

 

「犬の首を繋いでいたつもりだったのに、繋いでいたのは犬の尻尾だったか!」

 

 

こうして「君側の奸」を排除した司馬倫ですが、彼もまたやらかしてしまいます。

 

301年1月。功績を驕り、なんと司馬衷に譲位を迫って皇位を簒奪してしまったのです。

 

この1人勝ち状態に、賈南風排除の共同者だった司馬冏は憤りますが、司馬倫は天下の大物。そう簡単には倒せません。

そこで、司馬乂(しばがい(E))、司馬穎(しばえい(F))と司馬顒(しばきょう(G))に協力を呼びかけます。

 

三王の同盟を得ると、「司馬倫を誤らせた孫秀を討つ!」と大義名分を発表し、ついに挙兵。

 

301年4月。司馬倫の朝廷軍が大敗を喫すると、朝廷は降伏を考えるようになり、孫秀は斬り捨てられ、司馬倫は捕えられます。

 

「孫秀が私を誤らせた!孫秀が私を誤らせた!」と慟哭する中、司馬倫は自害させられました。61歳没。

 

司馬衷は朝廷により復位を果たし、司馬倫の即位は「なかったこと」にされました(なので歴代には数えられていません)

 

 

司馬衷の御世を取り戻した4人は、次の不穏要因となっていきます(やっぱり)


挙兵を呼び掛けた司馬冏が実権を握るようになると、他の3人は不満を持ちます。

(ここから先は司馬サンが入り乱れるので、名前を記号付きにしますね)

 

そんな時、司馬顒(G)は洛陽帰りの部下の李含(りがん)から、提言を受けます。

 

「密命を受けたと偽り、洛陽にいる司馬乂(E)に司馬冏(D)を討たせましょう。兵が少ない司馬乂(E)は負けるでしょうが、彼を滅ぼした罪で司馬冏(D)を討てば、大勲功となります」

 

その通りにすると、なんと司馬乂(E)は勝ってしまい、司馬冏(D)は捕えられて処刑されてしまいました(302年)

 

「司馬乂(E)が勝っちゃったよ…どうすんだよ…」と司馬顒(G)は困惑。

しかし、司馬乂(E)は謙虚で出来た人柄だったようで、功労者にも拘わらず専横することなく、帝も蔑ろにしなかったので、安定政権に移行するかと思われました。

 

ところが、司馬乂(E)と司馬顒(G)の部下同士が対立するようになり、殺人にまで発展。

これを口実に司馬顒(G)は挙兵し、司馬穎(F)が呼応(303年)

 

司馬乂(E)はすぐに帝に報告し、司馬顒(G)と司馬穎(F)を討伐する詔が出されました。

 

1年にも及ぶ激戦でも決着がつかなかったのですが、司馬顒(G)が洛陽を包囲して兵糧攻めに転じると、司馬乂(E)サイドにいた司馬越(しばえつ(H))が兵糧の欠乏から戦の長期化を憂慮し、司馬乂(E)を捕縛。

 

司馬衷の命により開城して終戦となったのですが、司馬乂(E)の兵たちが司馬乂を取り返して再戦しようとします。敵も疲弊していることを知り、またそれだけ司馬乂に人望があったということですね。

 

司馬越(H)は「これはまずい」と一計を案じ、司馬乂(E)の幽閉場所を司馬顒(G)に密かに伝えたことで、司馬乂(E)は敵方の手に渡り、兵営で生きたまま焼き殺されてしまいました。27歳没。

 

 

司馬顒(G)と司馬穎(F)は政界に復帰し、司馬穎(F)は皇太弟となり、丞相として政権を掌握します。

 

…が、帝を蔑ろにして専横を極めるようになってしまいます。

司馬倫(C)や司馬冏(D)の時と同じ…。司馬乂(E)が生きている頃の方がマシだったね…。

 

304年7月。憤った司馬越(H)が帝に上奏して挙兵。司馬衷は司馬穎(F)を討伐する詔を出します(司馬穎(F)討伐の詔は1年ぶり2回目)

 

司馬衷も皇帝軍を率いて司馬穎(F)が治める鄴に向けて進軍。ところが、奇襲を受けて大敗し、玉体を奪い去られる大ポカを犯してしまいます。

 

司馬越(H)は下邳へ逃走すると、司馬穎(F)は和睦を持ちかけるのですが、拒否。鮮卑族や烏桓族ら異民族の突騎隊を率いてリベンジを仕掛けます。

 

306年1月、司馬越(H)が鄴を襲撃すると、たまらず司馬穎(F)は洛陽へ逃亡。

 

さらに長安への遷都を強行すると、百官は付いて行かず、晋の政治が東西で分裂する事態になり、失脚した司馬穎(F)は廃太子されてしまいました。

 

306年5月、長安が落とされ、司馬衷も洛陽に帰還。

 

司馬穎(F)は長安から新野に逃れたのですが、捕えられ処刑。

司馬顒(G)は招聘され、逃亡先から洛陽へ向かう途中、司馬越の弟により絞殺。

 

こうして八王は司馬越(H)のみとなり、彼が「八王の乱」の勝者となったのでした。

 

306年、司馬衷は48歳で食中毒により急死(毒殺された…とも言われます)

新たな皇太弟に立てられていた司馬熾(しばし)が22歳で3代晋帝に即位します(懐帝)

 

ところで、司馬穎(F)が、親征して来た司馬衷を奪い取って鄴に鎮していた時。

 

手元にいた異民族の首長・劉淵(りゅうえん。匈奴族)が、幽州・并州方面(華北一帯)にいた司馬越サイドの勢力討伐への参加を申し出たので、司馬穎(F)は募兵のために并州へ帰ることを許可します。


大軍を集めた劉淵は、司馬穎(F)の救援に戻ろうとするのですが、すでに司馬穎(F)の幽州・并州方面軍が敗走していたので果たせませんでした。

 

そこで、劉淵は自立して「漢」の建国を宣言(304年10月)。

これが晋滅亡のカウント開始になってしまいました。

 

晋が「八王の乱」に忙殺されていた隙に「漢」は強大となり、すでに華北を侵食している危機的状態。

時代は異民族国家が次々と自立して晋と対立していく「永嘉の乱」に突入し、「八王の乱」勝者の司馬越は余韻に浸る暇もなく対応に追われることになります。

 

強大な敵に対するには、強力な権力が必要。司馬越はなりふり構わず独裁権を集中させているうちに、司馬熾の側近や親族外戚を排除しまくったため、司馬熾と不仲になっていきました。

 

310年6月。劉淵が亡くなって後継者争いが起きるのですが、これを上手く活かすことが出来ず、「漢」との防戦には連敗続き。

 

この武運の無さと、権力闘争のやり口の悪さで、司馬越の評判はダダ下がり。

やがて洛陽にいれなくなり、前線指揮に赴任すると、司馬熾は「司馬越追討」の密勅を下します。

 

これを知った司馬越は、311年3月。失意の中、憤死。

大黒柱を失った晋軍と「漢」との交戦の行く末は、冒頭で触れた通り。

 

抵抗力と統治力を失った晋は、その年の6月に「漢」の攻撃を受けて王都・洛陽が陥落。

司馬熾は捕えられて「漢」の王都・平陽に連れ去られ、散々屈辱を味わされた末に、翌年の1月に処刑。29歳没。

 

313年、司馬熾の崩御を受けて、甥の司馬鄴が長安で即位(愍帝)。この時13歳。

 

しかし、司馬越の敗北と洛陽の陥落で人材は枯渇し、長安は「八王の乱」で風前の灯火にまで荒廃していたので、食糧不足が深刻化していて、もはや体力は無きに等しい状態でした。

 

316年、漢の侵攻の前になす術もなく長安は陥落し、愍帝は先帝と同じく、捕えられて平陽に連れ去られ、屈辱の日々を送った末に翌年処刑されました。16歳没。

 

江南で晋の最後の光が灯りましたが、華北は異民族国家に蹂躙され、「五胡十六国時代」の血なまぐさい分裂の時代が始まったのでした。

 

 

ちなみに、国が滅亡した後、公に封じられて中原にいた劉禅(蜀)の子孫や、孫晧(呉)の子孫も異民族によって根絶やしにされ、晋の崩壊に巻き込まれるように、『三国志』は色々な意味で終わりを迎えています。

 

「五胡十六国時代は、古代中国ロマンの終焉」と言われているが由縁。

 

残虐非道で容赦ない…。

 

「五胡十六国時代」は中国における仏教の興隆の時代でもあるんですが、こういう「諸行無常」な時代の雰囲気が、それを後押ししたのかなぁ…なんていう気もしてしまいますねー。

 

 

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