曹丕の異母弟の子について語るつもりが、「あまり知られてない魏と呉の建国から滅亡までの歴史を紹介してみよう」というテーマになった感のある、今回の三国志語りシリーズ。

 

曹魏、孫呉とやったので、あと残すのは蜀漢だけとなりましたが…。

 

何だかんだ言っても蜀漢は、劉備と諸葛亮の国。

 

その歴史は有名でしょ…と思うのですが、「前半の主人公・劉備」「後半の主人公・諸葛亮」がいなくなってからの経緯は、意外とマイナーな部類に入ってしまうみたい。

 

諸葛亮の没後に姜維(きょうい)が頑張っていた…とか、劉禅は降伏してからも生き残った…までは知っている。

けれども、姜維の最期や、誰が蜀を滅ぼしたか?までは知らないわーって人も結構おられます(つーか、知ってるの三国志オタクくらいかも…)

 

諸葛亮の死後(234年)から30年弱(263年)持ったというのを、「そんなに長持ちしたんだ」と思われるフリもあったり。

劉禅が「暗君」のレッテルで有名だからなんでしょうね(笑)

 

それならば、「あれからの蜀漢の歴史」も意外と需要あるかな…?ということで。

これまでの「皇帝に即位・建国後」から切り口を変えて、「諸葛亮没前後の蜀と魏の戦い」に焦点を絞って紹介してみたいと思います。

 

 

まずは、諸葛亮の北伐から姜維がヒャッハーになるまでの経緯をおさらい。

 

「出師の表」から始まる彼の最後の挑戦は、228年から丸6年半、全5回に渡って行われました。

 

漢中の北を遮る「秦嶺山脈(しんれいさんみゃく)」を越えて雍州(曹操・曹丕が作った長安を含む州)を取る。

 

220年、関羽の死とともに荊州ルートを失った蜀漢にとって、これが北伐の避けては通れない道です。

 

「秦嶺山脈」を越えるには狭くて険しい、有名な「蜀の桟道」を通らねばなりません。

 

そして魏にとっては、「夷陵の戦い」(222年)で壊滅的なダメージを受け、劉備がいない(223年)、国力の小さい蜀は、「こちらからの侵攻には備えているだろうけど、あちらから攻めてくることはないだろう」という存在。

実際に大した軍事行動のないまま5年が経過していて、魏は備えが緩んでいました。

 

ただでさえ攻め込むのが困難な地理、その上に警戒されて備えられたら北伐は困難でしたが、これはチャンス。

 

いま油断している、この時の隙を突いて、1発で成功させなければ、夢がはるか遠のいてしまう。

 

そんな、大事な大事な初戦を、ついに迎えます。

 


↑位置や道は半分適当です(汗)

 

第1次北伐は、228年の春。別名「街亭の戦い」

 

「秦嶺山脈」越えのルートはいくつかあって、中でも「子午道」は狭くて険しいのですが、抜けると長安まで目と鼻の先に出ます。

 

長安は大都市ですが、守っている夏侯楙(かこうぼう。夏侯惇の子)は金儲けが好きなだけの愚将。

急襲して意表をつけば、臆病風に吹かれて退却するかもしれません。

 

ここです、ここですよ丞相!と魏延(ぎえん)は進言するのですが、慎重派の諸葛亮に「危険すぎる」として却下されてます。


一方「褒斜道」は、長安を目指すには遠回りですが、比較的広くて通りやすい。諸葛亮はココを選び、趙雲に進ませます。

(ちなみに「褒斜道」は、かつて項羽によって漢中王に封じられた劉邦が、漢中入りのために通った道でもあるそうな。第1次北伐から434年前のお話)

 

…と見せかけて、実は趙雲は囮

本隊を率いた諸葛亮は、長安とは正反対の方向にある祁山(きざん)」に向かいます。

 

祁山を越えると、そこはかつての涼州。董卓や韓遂、馬騰、そして馬超が、長安を目指した出発地点です。

第1次北伐の完成形は、彼らがやった長安遠征の再現だったのかもしれません。

 

魏の総司令官は、雍涼州の軍事担当の曹真(そうしん。前回紹介した、司馬懿と権力争いをして敗れた曹爽の父)

さらに、突然の蜀の軍事行動に危機感を抱いた魏帝・曹叡が自ら親征してきます。

 

「趙雲は囮だ」と気づいたかどうか、曹真は趙雲に釘付けとなり、その隙に諸葛亮が本隊を率いて祁山を抜けると、南安、天水、安定の3郡を寝返らせることに成功しました。

 

このままでは雍州に攻め込まれて趙雲と挟み撃ちだぞ…と、曹叡は雍州への入り口「街亭」を確保するため、張郃を向かわせました。

 

蜀からすれば、「街亭」を取れば雍州はすぐそこ。

逆に取られたら、涼州側の入り口「天水」に侵出されてキツくなります。

ここを張郃より先に確保しなければなりません。

 

ならば誰を向かわせるか…というところは「泣いて馬謖を斬る」のエピソードで、よく知られている通り(笑)

 

馬謖は張郃より先に「街亭」に着いたのだから、川を利用して専守防衛で張郃を防いで足止めし、攻撃は諸葛亮や趙雲に任せとけばよかったのに、ヘタに山に登って撃破しようと思ったばかりにボロ負けして、「街亭」は奪われました。

 

せっかく寝返らせた南安、天水、安定もあっさり奪い返され、それどころか撤退しなければ全軍が危うい状況。

 

途上で姜維を得ることができたものの、北伐のプランそのものが破綻し、馬謖は処刑され、趙雲と諸葛亮は降格処分となってしまいました。

 

ちなみに『演義』では、兵糧を集積していた拠点(陽平関?西城?)に、諸葛亮が少兵を率いて取りに向かい、司馬懿の大軍が来たのを「空城の計」で時間稼ぎ&撤退させる話が差し込まれますが、そもそも司馬懿が北伐防衛を任されるのは第4次以降

 

なので、たぶん『演義』の創作です(でも、諸葛亮が奏でる琴の弦が切れて「本当に空っぽの城」だとバレたのに、その男気を認めて司馬懿が見逃す…というシーンはワタクシも好きですw)

 

 

第2次北伐は、同じ228年の冬。別名「陳倉の戦い」

 

今度は祁山方面ではなく、険しい「陳倉道」を通過して北進。

まさかココを来るとは思わないだろう…と裏をかいた作戦(ちなみに、最後の「五丈原の戦い」と同じルート…らしい?)

 

ところが、曹真がこれを見抜いて準備していたために、堅城「陳倉城」の攻防戦に釘付けになってしまいます。

 

そんなこともあろうかと用意していた「雲梯」「衝車」「井闌」らの兵器を用いて攻めるも、守将・郝昭(かくしょう)が20日に渡ってねばったため落とせず、兵糧が尽きたので撤退。

 

えっ…1ヶ月弱の分しか兵糧持ってこなかったの…?

という謎があり、これ「第2次」ではなく「第1次の後半戦」ではないか?とも言われています。

 

追撃してきた王双(演義では「流星鎚」の使い手)を討ち取ったものの、これといった戦果は挙げられませんでした。

 

 

第3次北伐は、翌229年の春。

 

第1次と同じく祁山方面に諸葛亮が進軍。

 

魏将・郭淮(かくわい)を防いでいる内に、陳式(ちんしょく)が武都・陰平を平定し、領土を獲得した功績で諸葛亮が「丞相」に復帰

 

実はこの時、諸葛亮は李厳から「禅譲を受けて皇帝になるべき」と助言を受けています。

この年に孫権が「呉帝」を称したことが念頭にあるんでしょうかね。諸葛亮は固辞しています。

 

 

翌230年、「子午の戦い」が勃発。

 

これまで受け手だった曹真が反撃。魏軍を率い、秦嶺山脈を越えて漢中へ襲来。

 

陽平関から攻め込むつもりだったのですが、「漢中制圧戦(対・張魯)の苦労をお忘れですか…」と陳羣の反対があり、以前魏延が提案して却下された「子午道」から急襲する作戦となります。

 

諸葛亮は魏延と李厳に命じて漢中の守りを固め、自身も楽城に拠して防衛の任につきますが、魏軍は長雨による増水に祟られて進軍は止まってしまい、詔によって無念の撤退となりました。

 

 

第4次北伐は、231年春。別名「祁山の戦い」

 

曹真が病死してしまったので、以降は司馬懿が代わってお相手仕る。

 

再び祁山方面に進軍。「木牛」を用いて食糧輸送の問題解決を図るものの、結局は長雨に邪魔されて輸送が滞り、その責任を負いたくない輸送担当の李厳の進言により撤退(しかし後に真相がバレてしまう始末…)

 

撤退中、司馬懿の命令により追撃してきた張郃を戦死させ、「定軍山の戦い」(219年)での劉備の宿題と、「街亭の戦い」の敗戦の仕返しを達成しています。

 

 

第5次北伐は、234年。別名「五丈原の戦い」

 

輸送では心許ないと考え、3年かけて屯田を行って食糧問題の解決を図ります。

 

春に進軍して(「陳倉道」?「褒斜道」?)五丈原に布陣。守りを固める司馬懿と局地戦を展開するものの、全体としてはにらみ合ったまま膠着状態。秋になると諸葛亮が陣中で病没してしまい、蜀軍は撤退。

 

諸葛亮の北伐の夢は、叶うことなく潰えてしまうのでした。

 

 

その後、諸葛亮の没後に丞相職の大半を請け負った蔣琬(しょうえん)が、「陸路がダメなら水路で攻めよう」と戦略の転換を唱えますが、水運だと撤退に難があることと、何より蔣琬自身が亡くなってしまったので中止(246年)

 

後継者の費禕(ひい)「丞相(諸葛亮)にもできなかったことを、我々ができると思うか?」と消極派で、やる気マンマンの姜維に大軍を与えないようにして制御していたのですが、魏の刺客により暗殺(253年)

 

重石が取れる格好となった姜維は、先主(劉備)以来の悲願だった魏征伐を、以前にも増して強く意識するようになっていきます。

 

…という感じ。急ぎ足過ぎますが、伝わりますかね…?

 

 

ところで、冒頭でも出ましたが、蜀を滅した人って誰なのか意外と知られていません。

 

その人の名は、鄧艾(とうがい)。彼が一番の功労者です。

 

ワタクシも「好きな魏の武将は?」と聞かれると「鄧艾」の名を上げるんですが、これを聞いた人は大概「誰…?」という顔になります。

 

なので、ちょっと話は外れて、彼について紹介します。

 

そもそも曹操の息子・曹冲から始まったシリーズですし、話題が「魏」に戻るというのも、おあつらえ向きよな。

 

 

鄧艾は、曹操が始めた「屯田」に連れて来られて生産職に従事させられた家の子で、貧しい子供時代を過ごした出自でした。

生年は不詳ですが、屯田は196年頃に上奏されて始まっているので、その数年後くらいの生まれですかね(とすると、蜀討伐は60歳前後)

 

頭は良くてキレ者なんですが、性格は強情で空気を読まないタチ。そして吃音持ちだったので、他人には好かれませんでした

 

最初は農政に関わる役所に登用されて、農政官としてバリバリ仕事をこなします。

 

仕事柄、各地を視察して回るのですが、その際に現地の地形や地図を見ながら、軍事的な研究をするのが好きだったようです。

当然、農政官にとって軍事は全く関係ないことなので、周囲から「変わったヤツだなぁ」と笑われていたそうな。

 

でも、この研究熱心さが彼の前途を開きます。まるで、楚漢戦争時の名将・章邯(しょうかん。項羽軍、その前は秦軍の将軍)のようですなぁ(章邯は元は治水を担当する行政官で、水運と各地の地形について熟知していたが故に名将になれたんですねー)

 

やがて、鄧艾は各地の状況について中央政府に報告する役職となり、司馬懿にお目通りをする機会に恵まれます。

その才を見抜いた司馬懿は、自軍の所属に抜擢。鄧艾は中央で出世する道を得ました。

 

鄧艾は農政官出身らしく、淮南地域に新たに運河を敷き、現状に即した水運を整えるとともに屯田を開くことを提案。

 

これが当たって、兵糧の収入が激増。さらに呉との間に変事が起きてもすぐに進軍することが可能になり、この功績が認められて昇進。魏の西方…蜀との国境付近へ赴任することになりました。

 

鄧艾が姜維と相まみえたのは、まだ姜維を制御していた費禕が暗殺される直前の249年。

 

姜維が侵攻して来たので、征西将軍・郭淮(かくわい)とともにこれを迎撃。

 

姜維が一旦退いた後に再び戻ってくると、

 

「こちらの方が数が少ないのに、橋も架けようともせず、攻めて来る気配がない。これは足止め用の囮で、本隊は西方の城を目指すだろう」

 

と先を読んで、拠点の守りを固め、姜維の作戦を失敗させました。

 

呉の動きが活発になってくると、呉の国境付近に異動となり、「第5次 合肥の戦い」(253年。諸葛恪が攻めて来た戦い)や「毌丘倹の乱」(255年)の鎮圧に参加。

 

「諸葛恪は人心を得ていないのに勝手に軍を動かしている。ロクな死に方をしないだろう」…と予言して的中させるなどしました。

 

これらの功績が認められ、行安西将軍に昇進。

西部戦線に転任となり、再び姜維と対決していくことになります。

 

 

255年、姜維は魏が守る「狄道」に攻め込み、徐質や王経を大破することに成功。

しかし、陳泰(陳羣の子)の戦略によって「狄道」そのものを落とすことはできませんでした。

 

この功績によって陳泰が中央に栄転すると、代わって鄧艾が北伐防衛を担当するようになります。

すると、姜維の戦略は上手くいかなくなっていきます。余程相性が悪かったんでしょうかね。

 

姜維は魏からの降将という来歴があり、完全に外様の存在。武功のみが評価材料なのに、負け込んでしまっては社会的地位さえ危うくなっていきました。

 

256年「段谷の戦い」で鄧艾に大敗すると、蜀の国内で北伐に対する疑問の声が大きくなり、姜維は北伐中止を余儀なくされます。

 

その後、262年に再開しますが、またしても鄧艾に敗れ、武名の墜ちた姜維は完全に孤立。身の危険を感じて成都に帰ることができなくなってしまいました。

 

 

263年5月。最後の魏帝・曹奐の勅令により、蜀漢討伐が開始。

 

司馬昭の部下である鎮西将軍・鍾会(しょうかい。鍾繇の子。この時39歳)が兵10万を率いて漢中へ進軍。

征西将軍に任じられていた鄧艾は兵3万余を率いて、諸葛緒とともに北方で暴れまわっている姜維を挟撃しました。

 

ちなみに、鍾会は名門の生まれのお坊ちゃん。貧しい生まれの鄧艾とは正反対です。

 

姜維は魏の侵攻が近いと予見し、劉禅に増援を要請していましたが、奸臣・黄皓が「敵襲はない」との神託を占いで得ていたため、群臣はこの上表すら知らされていなかったと言います。

 

姜維は鍾会が漢中に向かっていることを知ると、趙広(趙雲の子)を失うなどしながら鄧艾と諸葛緒の追撃をかわしつつ後退。

 

漢中盆地から益州盆地の通り道にある要衝剣閣(けんかく)」に立て籠もると、鍾会と鄧艾はここから突破できなくなってしまいました。

 

 

かつて諸葛亮は北伐を行う際、食糧輸送に悩まされましたが、事情は魏軍も同じ。

剣閣を全く抜くことができず、食糧不足に直面。鍾会は一旦は諦めて撤退することを考え出しました。

 

そこで、鄧艾が驚くべき作戦を提案します。

 

「剣閣を迂回して道なき道を進み、成都を直接襲撃する」

 

成功すれば勝利間違いなし…でも、越えられるのか?あの険峻な蜀の険山を?

 

鄧艾は、時には木をよじ登り、時には毛布にくるまって崖を転がり落ち、谷に橋を架け、山に穴を開け、食料を捨てて飢餓の危機すら乗り越え、ついに江油(えゆ)まで到達して、この困難な任務を達成。

 

諸葛瞻(しょかつせん。諸葛亮の子)を「綿竹」で破って敗死させると、剣閣に出払って守備兵がいない成都は大混乱に陥り、劉禅は降伏

 

主君が敵の軍門に降っては、剣閣で抗戦する意味がありません。

姜維たちも武装を解除し、鍾会に降伏。

 

蜀漢は、2代42年で滅亡を迎えたのでした。

 


左:劉禅@王鶴鳴さん
右:諸葛亮@陸毅さん

2010年『三国志 Three Kingdoms』より

 

成都を落とした鄧艾は、勝利に酔いしれたのか、己の功績を誇る自慢話を吹聴することが多くなり、独断専行の振る舞いが目立つようになります。

 

兵に略奪を禁じ、民たちにいつも通りの仕事を行うようにと布告したまではよかったのですが、勝手に蜀旧臣の人事を行ったり、劉禅を将軍に任じたりしました。

 

さらには、農政を施して統治しようとまで(この辺は前職の職業病ですかね…)

 

やがて、蜀に居座りながら、呉を攻める算段を考えて司馬昭に上奏までする始末。

 

ここまでの権限を与えたつもりのなかった司馬昭は困惑。

蜀討伐軍の監査役だった衛瓘(えいかん)に「勝手な行動はしないように戒めよ」と命じています。

 

しかし、鄧艾は持ち前の強情さと聞き分けの無さを発揮してしまいます。「古典にいわく、将は戦地に赴いては君命も従わず!」

 

 

その頃、鍾会は降将だった姜維と意気投合してしまっていたみたい(何やってんだか)

 

姜維と語らう内に、蜀を再興したい姜維と、もっとデカいことをしたかった己の想いが1つになって、蜀を奪ってクーデターを起こしちゃおうかな?という野望を考えるようになっていました。

 

「俺も劉備くらいにはなれるかな」

 

そこで邪魔なのが、成都を落とす功績を、自分から奪っていった鄧艾。

 

鄧艾のやったことを調べ上げ、謀反の証拠となりそうな情報を集め、それを衛瓘に報告。

 

できれば、鄧艾が逮捕を拒否して衛瓘を討ち、さらに罪状を増やして失脚すればいいなと思っていたのですが、衛瓘は夜討ちをして上手いこと鄧艾を逮捕することに成功。そのまま洛陽に連れ去ろうとしていました。

 

「まぁ、いいだろう。あいつらが居なくなったら俺たちが動く時間だ」

 

しかし、鍾会のクーデター計画は、反対した部下を安易に幽閉してしまったことで、すぐに配下の兵たちに漏れ伝わってしまいました。

 

「このままだと、俺たち反逆者になるか、鍾会に殺されるか、ふたつにひとつだ…」

 

焦った兵たちは、すぐさま鍾会と姜維を包囲。

 

多勢に無勢では歯が立たず、鍾会と姜維は抗戦空しく討死となります。

 

そしてすぐ、衛瓘を追いかけて鄧艾を助け出すのですが、騙し打ちにした報復を恐れた衛瓘は、綿竹のあたりで鄧艾を殺害。

 

姜維、鄧艾、鍾会の「蜀漢滅亡」を演じた3人は、ほぼ同時期にこの世から退場することになってしまったのでした。

 

かつて「人心を得ていないのに勝手に軍を動かしている。ロクな死に方をしないだろう」と諸葛恪の最期を予言した、そのまんまの鄧艾の最期。

 

他人のことはよくわかっても、自分のことはよく見えない。名将・英雄にありがちな設定ですね。こういうの大好物(笑)

 

 

蜀の滅亡って、あんまり語られることがないので、あっさり終わったような感じがあったかもしれませんが、諸葛亮や姜維の北伐の妨げになった秦嶺山脈の峻険さは、「守りやすく攻めにくい」だけあって、蜀を滅ぼそうとする魏にとっても相当な障害になっていたわけですね。

 

もちろん、他の時代でもこれは変わらず、歴代の名将が相当苦労していたり頼みにしていたりするんですが、それは機会が有ったらどこかで…ということで。

 

本日はこれまでに致します。ではではー。

 

 

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