先日『Three Kingdoms』にかこつけて、曹操の子たちとその子孫、魏(曹魏)のことについて語りました。

 

今日はそれに続いて、「三国志」を鼎立させた勢力のひとつ、(孫呉)について、取りあげてみたいと思います。

 

ワタクシ「歴史上で一番好きな人物」に「魯粛」を挙げることからも分かるように、一応「呉フリーク」。話が長くなっても知らないぜ!(今回予告)

 

 

呉は、中国大陸を分け隔てる長江の南「江南」にあった勢力。

 

長江から北と南では文化や民族気質が違ったようで、江南に住まう人々は勇敢で熱血、豪族たちの力が強い…そんな土地だったと言われます。

 

春秋戦国秦漢の頃「楚」があったあたり…と言えば、「ああ…」と思われる方もいるのではなかろうか(笑)

 

孫呉が、武勇の誉れによって豪族たちを束ねた純軍事政権なのか、「名士」を礼遇することにより豪族を心服させようとした文人士大夫政権なのかは、意見が分かれているみたい。

 

ともあれ、孫権の家である孫氏は「新参者」で「後ろ盾に頼りきり」状態だったので、有力豪族たちに担がれた盟主的な存在に過ぎず、かなり不安定な政権を運営していたそうです。

 

 

「反董卓同盟」(190年)で消極的な諸侯を尻目に、董卓を洛陽から追い出して「武名」を挙げた父・孫堅(そんけん)

 

盟友・周瑜と共に江南の地を次々に平定して、「小覇王」(項羽に次ぐ覇王)と呼ばれた兄・孫策(そんさく)

 

父と兄が、ともに軽率さが招いた不慮の出来事によって亡くなり、孫権(そんけん)が家督を継いだのは200年春、19歳でのこと。

 

華北では、ちょうど曹操が袁紹に打ち勝った頃(200年「官渡の戦い」)

ちなみにこの時、曹操は45歳、劉備は39歳。孫権の立身は、1世代も若い君主の誕生でした(父の孫堅が曹操と同い年もしくは1歳年下です)

 

その後、江南を安定させ、父の仇・黄祖(こうそ)を討った208年には、曹操がやって来て「赤壁の戦い」が勃発。

 

劉備とは同盟関係になりましたが、「第1次 濡須口の戦い」(212年)では劉備は援軍を寄越さなかったばかりか、明後日の方向を向いて益州へ侵攻。

 

益州を平定した劉備に、貸していた荊州の領土の返還を求めても、「涼州を取るまで待って♪」と無茶な言い訳で応じてくれませんでした。

 

とても仁義の人とは思えない(笑)劉備の老獪な外交に翻弄され、呉と蜀はギグシャグしているようにも見えました。

 

劉備との同盟の要だった魯粛が世を去ると(217年)、対蜀タカ派が軍権を占め、ついに全面対決を開始。

 

魏と同盟を結ぶと、荊州を取り返すために守将の関羽を撃滅(「樊城の戦い」219年)。

続いて、義弟を殺され怒り狂って攻め込んできた劉備を大破(「夷陵の戦い」222年

 

積もりに積もった対蜀のわだかまりを、グーパンチ喰らわせて鎮めることになりました。

 

(勝手な感想なんですけど、蜀って魏よりも呉の方から多くの損害を受けているような気がします…これは魏も同じで…呉強し)

 

蜀と和睦すると、魏と同盟を組む必要性がなくなり、魏とは再び敵対。

 

曹丕(220年即位)、劉備(221年即位)に続いて、229年に孫権が即位。武昌から建業に遷都し、孫呉の初代皇帝となりました(大帝

 

…と、このあたりまでは『三国志』でもちょこちょこ出てくる場面が多いので、よく知られている流れなのではなかろうか。

 

今日の本題は、この先の孫呉の行く末について…つまり、ここまでは前置きです。ああ、長かった(笑)

 


孫権@張博さん
2010年『三国志 Three Kingdoms』より

 

 

孫権は182年生まれで、即位時は47歳。

 

252年に70歳で没するまで、まだまだ長生きして23年の治世を経ますが、耄碌して晩節を汚したと言われます。

 

その最大の評価材料となっているのが、二宮事件(にきゅうじけん)」

 

正史『三国志』には載っているけど、何故か『三国志演義』では省略されて、ゆえに「孫権の晩年から滅亡まで、呉は何をしていたの?」と存在感を薄くしている事件です(笑)

 

(なので『Three Kingdoms』でも出てきません…というか、全95話なのに94話が「五丈原の戦い」で最終話が「晋建国」…本場中国も呉はスルーなんですね・苦笑)

 

 

「二宮事件」は241年から250年の約9年をかけて起きた政治闘争。

 

蜀では諸葛亮の没後(234年没)、魏では4代・曹芳が即位した頃(239年)です。

 

事の発端は、出来のいい皇太子の孫登(そんとう)」が33歳で若死にしてしまったこと(241年)

 

孫権は嘆き悲しみながらも、次の皇太子に孫和(そんか)」を立てました。

(先に明かしておきますが、孫和は呉最後の皇帝・孫晧(そうこう)の父にあたります)

 

ここに、女性の争いが絡みます。

 

 

孫権には「歩夫人」という寵妃がいて、孫魯班(そんろはん)と孫魯育という姉妹をもうけていましたが、やがて「王夫人」に寵愛が移り、その息子が孫和でした。

 

孫和が皇太子となると、王夫人は「皇后」にクラスアップ。

これが、王夫人を嫌っていた孫魯班は面白くありませんでした。

 

「わたしの母への寵愛を奪い取った、あの女が皇后…?」

「わたしの母でさえ皇后になったことがないのに、あの女め…」

 

孫魯班は最初、周瑜の息子(周循)に嫁ぎ、夫と死別すると今度は、呉軍でも名将の誉れ高い全琮(ぜんそう)に嫁いでいましたが、同族の孫峻(そんしゅん…また後で出てきます)」と度々密通を繰り返していたという、中々に癖のある女性。

 

孫魯班は父である孫権に、王夫人と太子・孫和の讒言を事あるごとに吹き込んで、そのために孫権は孫和への気持ちが冷めてしまいました。

 

こうして孫和への寵愛は、異母弟の孫覇(そんは)に移り、やがて孫覇は「魯王」に封じられ、宮殿も与えられ、皇太子と同等の扱いをされるようになっていきます。

 

この状況に、家臣たちは「廃太子が起きて孫覇が新たに立太子されるのでは」と考えるようになりました。

 

主流派ではない者たちにとっては大チャンス到来。これから「新しい皇太子」が立てられるのなら、覚えめでたくすれば即位後に自分が主流派に立つのも夢ではないかもしれません。

 

こうして多くの子弟が孫覇の元に足繁く通うようになり、孫覇もなんだかその気になっていきます。

 

孫和は怖くなって、丞相の地位にあった陸遜(りくそん)に助けを求めます。

 

 

陸遜は「夷陵の戦い」で劉備を完膚なきまでボコボコにした名将で、この時は「丞相」にまで登っていましたが、遠く荊州の地で統治に当たっていました。

 

陸遜が孫策の娘との間にもうけた息子・陸抗(りくこう)は、張承(張昭の子)の娘を娶って、孫和とは相婿の関係。

二重の婚姻によって孫氏の姻戚となっていた陸遜は、廃太子などという国家の一大事には、当然のように反対する「孫和派」の重鎮でした。

 

陸遜は、孫権に対して長幼の順と嫡庶の分別を説き、孫和を尊重し、孫覇を遠ざけて弁えさせるよう説得するのですが、荊州からでは限界がありました。

 

孫覇の客分だった楊竺(ようじく)は、これを邪魔に思い、妨害を開始。

20条にも及ぶ罪状を告発し、これを信じてしまった孫権が、何度も何度も何度も陸遜を詰問する事態に発展し、陸遜は失意の連続の中、死去してしまいます(245年)

 

陸遜をしつこく詰問して死なせてしまったのも、孫権が晩節を汚した…といわれる要因の1つ。

ともあれ、陸遜がいなくなれば、孫覇派のチャンス!

 

と思いきや、孫魯班の母(歩夫人)の親族・歩隲(ほしつ。247年没)と、魯班の夫・全琮(249年没)という、孫覇派の重臣が相次いで死去。

 

お互い人材を失った両陣営は、決定機を得られないまま状況は泥沼に陥ってしまいました

 

ついに250年。大勢の家臣を巻き込んだ後継者争いに嫌気がさした孫権は(自分が元凶なのに…)、孫和を廃太子孫覇には自害を命じ、喧嘩両成敗として事件を決着。

 

七男の孫亮(そんりょう)が皇太子に立てられることになりました。

 

なお、孫亮の生母の藩淑(はんしゅく)は孫魯班と仲良し。

 

孫亮には孫休(そんきゅう)という異母兄がいて、彼が孫亮の後に3代皇帝となるのですが、兄と弟で順番が逆になっているのは孫魯班の関与のせいなんでしょうね…と、思います。

 

 

「二宮事件」が落着してから2年後の252年(魏では司馬懿が亡くなった翌年)孫権が崩じ、孫亮が2代呉帝に即位廃帝

 

孫亮この時10歳(ちなみに孫和は28歳。あんな争いがなければ適齢だったのに…)

幼少なため、太傅・大将軍の諸葛恪(しょかつかく。諸葛瑾の息子で、諸葛亮の甥)を後見人としました。

 

諸葛恪は、孫権の死を好機として攻め込んできた魏を返り討ちにした(「東興の戦い」252年)までは良かったのですが、勢いに乗って合肥に攻め込むと、魏将・張特(ちょうとく)の計略にハマって惨敗(「第5次 合肥の戦い」253年

 

すると、元から驕慢だった性格がさらにおかしくなったようで、政治や人事を専横するようになり、これを嫌った孫峻により、誘い出された宴席で謀殺されてしまいました(253年)

 

ところで、廃嫡された孫和は「南陽王」に封じられ、長沙に幽閉されていたのですが、諸葛恪は姪っ子が孫和の正妻だったこともあり、孫和の待遇改善を考えて武昌(建業に遷都する前の呉の都)の宮殿を整備していました。

 

これを、孫峻は「孫和の復権に向けた動きではないか」と疑っていたみたい(繰り返すようですが、孫和の廃太子を最初に言い出した孫魯班と孫峻は密通する仲=孫峻は孫覇派

もしかしたら諸葛恪を葬った理由は、彼の専横や失政よりも、これが大きかったのかもしれません。

 

ともあれ、孫峻は後顧の憂いを断つべく、孫和から「王」の印璽を取りあげると、建業へ移送する途中で自殺に追い込みます(253年)

 

こうして実権を握った孫峻もまた、孫亮を傀儡にして専横を極め、「諸葛恪の時と変わらないじゃん…」という年月が過ぎます。

 

257年、孫峻は「諸葛恪に殴られる夢」を見て、恐怖のあまり病に倒れてそのまま死去。享年39歳。

 

孫峻の従兄弟の孫綝(そんりん)が継承しますが、彼もまた専横を極める困った存在でした…こんなんばっかり(笑)

 

この頃には、かつて幼君だった孫亮も15歳となっていて、大人の頭で考えると自分が傀儡であることに我慢がならなくなっていました。

 

「孫綝…あいつを排除できないものかなぁ」

 

この頃、魏では「諸葛誕の乱」と呼ばれる内乱が起きます。

 

諸葛誕は、寿春(じゅしゅん)」という要衝を守っていたのですが、ここはかつて、3代・曹芳の即位に不満を抱いた王淩(251年)と、曹芳の廃位に不安を覚えた毌丘倹(255年)が相次いで反乱を起こした地。

 

さらに、司馬氏と対立した挙句に失脚し滅ぼされた曹爽の同朋・夏侯玄と仲が良かったので、自分は司馬氏に睨まれているのでは…?とビクビクしていたみたい。

 

そんな時、「司空(三公のひとつ)に任じるから洛陽まで来るように」という命令が下り、疑心暗鬼に囚われていた諸葛誕は「これは…罠だ!」と信じ切れず、反乱に踏み切ったのでした。

 

寿春は呉と近隣だったので、諸葛誕は寿春に居ながら呉に降伏。救援を求めると、呉は応じて3万の兵を派遣。

しかし、結果は惨敗…。反乱は司馬昭によって鎮圧され、呉軍も戦死や投降が相次いで、散々な結果となってしまいます。

 

孫綝は援軍の総大将格だったのですが、ろくに動こうとしなかった上に諸葛誕の救出に失敗したため、名声がガタ落ちして影響力が低下。

 

これはチャンスと、258年。孫亮は逆クーデターを決意。妃に言います。

 

私は孫綝を排除すると決めた。中央軍の都督を務める君の父(全尚)に、ひそかに兵馬を集めてくれるよう頼んでくれ。くれぐれも君の母上に聞かれてはいけないよ(妃の母は、孫綝の従姉妹)」

 

こういうことは部外者に漏らしてしまったら、当事者に露見してしまう…というのが歴史のセオリー。

 

妃の母が密告に駆け込んだことで、すぐに孫綝の知る所となり、孫亮の計画は失敗。

 

孫亮は廃されて会稽に追放され、異母兄の孫休が3代皇帝となりました(景帝

 

 

孫休は孫峻・孫綝が嫌いでしたが、孫亮のように廃されることを回避するため、表立っては反感を覆い隠して接していました。

 

或る日、孫綝が牛と酒を献上したところ、孫休に受け取ってもらえませんでした。

 

「なんだよ。俺が即位させてやったのに。孫亮みたいに廃してやろうかな」

 

もう、慢心と油断が出ています。それを伝え聞いた孫休は、それでも許したフリをして孫綝を泳がせ、機会を待ちます。

 

やがて孫綝は、木が倒れたり、変な歌が流行ったり、不吉な出来事が連続したことで不安になり、武昌に移りたいと申し出ました。

 

「王都を出て挙兵するつもりだな。そうはさせるか!」

 

258年12月、蝋会(先祖の祭)の場に無理矢理呼び出すと、縛り上げて処刑を宣告。命乞いするのを聞き届けず誅殺します。孫綝28歳。

 

こうして孫休は親政を取り戻すことに成功。

 

孫峻・孫綝といった「孫覇派」の亡霊が追い払われたことで、孫和の子だった孫晧は復権を果たします。

 

孫休は善政を敷いて、呉は再興し、かつての活力を取り戻す…かと思われました。

 

しかし、あんなに政事がしたかったはずなのに、孫休は趣味の学問と雉狩りに耽るようになってしまいます。

さらに、先代皇帝で異母弟の孫亮を、クーデターの噂を信じて暗殺してしまいます(260年)

 

朝政は丞相・濮陽興(ぼくようこう)と左将軍・張布(ちょうふ)に丸投げして、2人とも専断が過ぎるようになり(またですかw)、信用はどんどんダダ下がりになる一方。

 

そんな最中、魏では4代・曹髦が殺害され、最後の帝である5代・曹奐が即位(260年)

「諸葛誕の乱」を最後に司馬氏に対抗する勢力は現れず、皇帝は完全に支配下に置かれていて、もう「ほぼ晋」。強大で崩せる隙がありません。

 

263年の夏、南方で「呂興の乱」が起きて、「交阯」が呉から離反。

その年の秋、魏の攻撃を受けた劉禅が降伏して「蜀漢」が滅亡。

 

困難な状況が次々と押し寄せるこんな時に、孫休が崩御。29歳没(264年)

 

孫休は息子が継ぐことを遺言しましたが、濮陽興と張布は、孫休の皇后に相談の上、孫晧を新帝に迎えます末帝

 

できれば孫休の遺命を叶えたかったですが、こんな国難が続く時に幼君を立てている余裕はありません。

孫晧は23歳の壮年なので、乗り切れるかもしれない。それが理由でした。

 

しかし、2人はすぐにこれを後悔することになります。

 

 

孫晧は粗暴で驕慢な性格で、酒と女が大好きという困った人物だったみたい。

 

父・孫和を「文帝」と謚して墓を豪華にし、墓守を大量につけるあたりは、「二宮事件」で廃太子された父こそが正統な後継者だったという強いメッセージ性をはらんでいます。

 

しかしこれは、裏を返せば「俺こそが呉帝だ。他はニセモノだ」ということ。

 

父を廃太子に追いやった孫覇や孫魯班の周辺、先代・孫休の周辺と、自分以外の皇族を次々に誅殺。

 

未来予言書「讖緯(しんい)」にドハマりし、占いやお告げによって呉王朝の正統化を目指すあまりに、16年の治世のうちで、遷都2回改元8回大赦12回謎の行動多数という、頻繁に繰り返される無駄と恩徳で国政を乱しました。

 

さらに、魏から晋に変わった華北へ、積極的に北伐を繰り返して国力を疲弊させました。

 

王蕃、楼玄、賀邵らの賢臣や、自分の即位に尽力した万彧、濮陽興、張布までをも死に追いやる非情さから、どんどん人心を失っていきます。

 

そんな孫晧の粛清を免れた者に、陸抗がいます。

 

陸抗は、かつて父・孫和を擁護するあまりに憤死を遂げた陸遜の子。

その恩を忘れなかった…ということなんでしょうかね。

 

272年、要衝「西陵(江夏)」を守っていた歩闡(ほせん。歩隲の子)が、猜疑心から晋に降伏し、西陵が晋の支配下になってしまうという大事件が勃発(「西陵の乱」)。

 

陸抗は即座に奪還に向かい、晋の援軍が救出を謀るより前に、歩闡を捕えて処刑。

 

この時、歩闡の救援に駆け付けた晋将の羊祜(ようこ)と智略の応酬を繰り返すうちに、互いの才を認め合って奇妙な友誼を結ぶ…という光景があったりします(「立場を越えて互いを認め合う」という「羊陸之交」の故事になっています)

 

こうして呉の最後の柱となっていた陸抗が274年に亡くなると、人材が枯渇。

 

280年、羊祜(278年没)の跡を継いだ杜預(どよ。司馬昭の娘婿)を総司令官とし、ついに晋軍が呉討伐を開始。

 

建業に至る頃には温暖で長雨の季節になり、「疫病を憂慮して冬に出直すべき」という助言を「いくつも節がある竹も、刀を入れれば一気に裂ける。我々は呉に刀を入れた。あとは力をかければ、何節(15日で1節)もかけずとも一撃で落ちる」と杜預は励まして進軍を続け「破竹の勢い」の語源)、ついに孫晧は晋に降伏。

 

「黄巾の乱」(184年)から約百年。群雄割拠・三国鼎立の時代は終わり、天下は晋に帰して統一国家となったのでした。

 

孫晧は降伏後、帰命侯に封じられ、284年に洛陽で亡くなったと言います。42歳没。

 

 

孫呉王朝は4代51年。

 

「二宮事件」が起きずに孫和が即位していたら、国力を疲弊することがなく、もう少し長命政権になれたのか。

でも、そうなれば順当に行くと孫晧が即位するから、結局は大して変わらない流れとなったのか。

 

果たして果たして…。

このへんは呉フリークでも中々に答えは出せないですねぇ。

 

 

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