最近、ウチの会社の得意先サンが『Three Kingdoms』を見たようで、その話題を振ってくれました。

 

『Three Kingdoms』というのは、三国志のドラマ。

2010年、6年もの歳月をかけて本場中国で制作された全95話の超大作です。

 

ワタクシも魯粛が亡くなるあたりまでは見ましたが、かなり昔のことで微妙に忘れています(^^;

 

で、振られたのが、ちょうど先日見終わったという曹操の息子の話でした。

 

「曹操がお気に入りだった出来のいい息子、史実でも曹丕が排除したの?」

 

その子の名前は忘れたと言ってましたが…曹操のお気に入りの出来のいい子で、曹丕の弟とくれば。

 

曹沖(そうちゅう)。字は倉舒(そうじょ)。

 

確かに『Three Kingdoms』に出ていましたね~。あの可愛い子ですな~。懐かしいw

 


左:曹沖@安彭澤宇さん
右:曹丕@于浜さん

2010年『三国志 Three Kingdoms』より

 

196年生まれなので、曹丕(187年生まれ)の9歳下の異母弟。

208年、12歳で夭折。

 

ドラマの中では「毒鼠に噛まれて中毒死と言われたが、本当は毒蛇に噛まれていて、おそらく曹丕が仕掛けたと曹操は確信した」という描写でしたが、どこまで史実なんですかねぇ?

 

ある時、お気に入りの鞍が鼠に齧られてしまった曹操が、倉庫番を処罰しようとカンカンになっていた所を、曹沖が機転を利かせて無罪放免にさせた…というエピソードがあり。

 

さらに、曹操没後に当主になった曹丕が、「私がこの座を得られたのは、もし兄の曹昂が早死にしなかったとしても何とかなったかもしれないが、弟の曹沖が生きていたら、どうしようもなかった」と述べるほど、危機感を持っていた。

 

この2つを上手いこと組み合わせた創作ではないのかな…と思います(根拠はない)

 

この話からの流れで「曹沖の同母弟の子が、魏の最後の皇帝になったんだよ」と言ったら興味を抱かれまして、魏の歴代皇帝の話や、いっぱい出てきて悩むという「曹○」との関係を、軽く系図を書いて講義(おおげさw)してみました。

 

それが結構好評だったので、この三国志熱が冷めないうちに清書して、ブログネタにしてしまおう!というのが今回の試みになります(カテゴリー「中国史を語る!」もほとんどやってないですしね…)

 

さっそく、作ってみたのがこちらになります。

 

 

曹操の父・曹嵩(そうすう)は、当時後漢の宦官としてブイブイ言わせていた曹騰(そうとう)の元へ養子として入り、曹一族の仲間入りをしたとされています。

 

正史『三国志』にある裴松之の註によると、曹嵩は養子になる前は夏侯氏の出身で、夏候惇の叔父だった…と言われます。というわけで、夏侯一族の系図も一緒にまとめてみましたよっと。

 

 

曹操の跡を継ぐ曹丕は、実は三男で庶子。曹昂(そうこう)と曹鑠(そうしゃく)の2人の兄がいて、当初は後継者ではなかったみたい。

 

曹操の女癖の悪さから張繡(ちょうしゅう)の奇襲を受けた際に、曹昂が身代わりとなって戦死(197年「宛城の戦い」)。曹鑠も病弱で早世してしまったので、嫡男のような立ち位置になりました。

 

それでも、文才があった弟の曹植(そうしょく)と、冒頭にも触れた利発さ満載の曹沖という、父に寵愛された弟がいて、曹操も誰を後継者にするか迷いに迷ったらしいので(智謀の士・賈詡が遠回しに諌めて曹丕になったそうな)、曹丕も相当ヒヤヒヤしたでしょうね(太子に立てられたのも217年と結構遅いです)

 

曹操は漢王朝を簒奪しないまま、220年(関羽が斬られた翌年)に逝去すると、曹丕が魏王と丞相職を継承。

同年中に、董卓に擁立されて(189年)以来ずっと帝位にあった後漢14代・献帝(劉協)から禅譲されて、ここに「魏王朝」が誕生。曹丕は初代皇帝となりました(文帝)。

 

後漢の滅亡を受けて、天下に魏と呉、蜀漢の3つの王朝が鼎立。

三国志は「黄巾の乱(184年)」が幕開けですけど、三国時代はここから始まるんですねー。

 

曹操に見る目があったのかどうか。後継者とすることを躊躇させたようにも見える曹丕は、治世の評判があまりよくありません。

 

親族であり功臣でもある曹洪を「むかし借金を頼んだのに断われた腹いせ」に処刑しようとしたり(群臣や母親の諌めで取りやめ)、曹操の寵姫たちを父の没後に自分のものにしたり、素行の悪さが目立ちます。

 

さらに、後継者争いで猜疑心が刺激されていたのか、それとも器が小さかったのか、親族を遠ざけたことによって藩屏の弱体化を招き、結果として司馬懿などの台頭を招いて、魏王朝の寿命を縮めた…と言われます。

 

まぁ、これを反面教師にした司馬炎(晋の初代皇帝)が親族を優遇してみたら、「八王の乱」に発展して晋王朝に致命傷を与えてしまっていますし、親族の処遇は難しい…という話になりそう。

 

曹丕の治世は、大規模な粛清はなく、特筆すべき大乱もなく、安定していたという印象。

簒奪者ゆえに評判が悪く、好き嫌いの激しい性格が増幅されて、このような評価になっている…ということなんでしょうかねー。

 

226年、在位7年にして曹丕は、夏風邪をこじらせて崩御。享年39。

曹丕の子・曹叡(そうえい)が2代皇帝となります(明帝

 

 

曹叡の母・甄夫人(しん ふじん)は、元は袁煕(えんき。袁紹の次男)の妻でした。その美貌を気にかけていた曹丕は、袁煕が滅亡すると真っ先に手に入れて妻としました。

しかし、移り気な曹丕の寵愛が薄れると、それに対して恨み言を言ってしまったことがあり、これが曹丕の勘気に触れて死を賜っていました。

 

この経緯のせいか、曹叡は父にあまり好かれなかったようなのですが、死に至る病に陥ると、覚悟して曹叡を立太子させ、没後に即位するはこびとなりました。

 

このため、司馬懿など限られた人にしか曹叡は知られていなかったと言います。

 

228年、蜀の諸葛亮が「出師の表」を提出して、北伐を開始。

これを曹真と張郃を用いて守り抜き、蜀では姜維の仕官と「泣いて馬謖を斬る」が起きています。

 

以後、5次に渡る北伐を相手取り、ついに諸葛亮は五丈原で陣没(234年)

諸葛亮の北伐は全て曹叡の時代に起きていたわけですねー。

 

諸葛亮による外圧が消えると、気が緩んだのか宮殿の造営などの土木作業を頻発。

魏の財政を傾け、徴発などにより農村の荒廃を招いてしまった…と言われます。

 

239年、在位13年にして曹叡が崩御。

曹叡の子はいずれも夭折していたため、養子として育てられていた曹芳(そうぼう)が3代魏帝となります(少帝)。

 

 

曹芳の素性は、父が「曹楷」という人物である以外は、実はよく分かっていないみたい。

曹丕の同母弟・曹彰の孫ではないかとも言われています。

 

ちなみに、「邪馬台国の卑弥呼」が遠路はるばるやって来て謁見した魏の皇帝は曹芳でした(239年)

 

新帝は即位時わずか8歳。幼少なため、曹丕の側近だった司馬懿曹爽(そうそう。曹真の子)を後見人としました。

 

曹爽は年配の司馬懿に敬意を示していたので、当初は両輪が回るように上手くいっていました。

 

ところが、曹爽が蜀漢討伐を計画し、司馬懿の大反対を押し切って決行するのですが、これが蜀将・王平の策にあって大失敗(244年「興勢の役」)。これ以降、2人の関係はしっくり来なくなってしまいます。

 

曹爽は政治権力を集約させると、司馬懿を名誉職に就けるよう上奏しました。

身の危険を感じた司馬懿は自宅に引きこもり、様子を見に来た使者にボケ老人を演じてみせ、曹爽の警戒を解くことに成功。

 

249年。曹爽が明帝(曹叡)の墳墓へ参拝に向かった隙を突いて、クーデターを決行。

慌てて戻った曹爽を捕えて一族一党を誅殺し、司馬氏独裁体制へと移行させました(「高平陵の変」)。

 

251年、司馬懿が亡くなると、息子の司馬師が実権を継承。

しかし、司馬氏の専横を嫌った曹芳が、司馬師を廃して夏侯玄を執政にしようと、外戚の張氏に勅命を出しました。

 

これを察知した司馬師は先手を打ち、張氏と夏侯玄を討滅。

さすがに曹芳を誅殺することはしませんでしたが、「成人になっても女遊びに現を抜かして帝位に相応しくない」として廃位に追い込みました。在位15年。

 

こうして254年、曹叡の異母弟の子・曹髦(そうぼう)が4代魏帝に即位(廃帝)。この時13歳。

 

曹芳の廃位に納得がいかない毌丘倹(かきゅうけん)が反乱を起こすと、司馬師は目を手術したばかりの体を押して討伐に出征。

鎮圧こそ成功させたものの、無理がたたって乱鎮圧の7日後に病没(255年)

 

司馬師の弟・司馬昭が実権を握りますが、曹髦もまた、司馬氏の排除を企てます。

これまたすぐに察知されて、宮殿内での戦いに持ち込まれ、在位6年、齢20歳で刺殺されてしまいました(260年「甘露の変」)。

 

3代皇帝は司馬師(兄)が廃位に追い込み、4代皇帝は司馬昭(弟)が殺害したわけですな。

 

ちなみに、皇帝弑逆の罪は、腹心・賈充(かじゅう)の進言により、「俺は何も知らない」と言って実行犯だった成済に全部押し付けています(ひどい…)

 

 

こうして5代、最後の魏帝(元帝)に立てられたのが、この記事のきっかけになった曹沖の同母弟・曹宇の子の曹奐(そうかん)

 

初代皇帝(曹丕)の弟の子なので、随分と等親が遡ってしまいましたが、どうせ傀儡なんで誰でも良かったんでしょうかねw

 

劉備が建てた蜀漢を滅亡させたのは、曹奐の御世でのこと(263年)

 

翌264年には司馬昭を「晋王」に封じ、265年に司馬昭が亡くなって司馬炎が晋王を継ぐと、ついにその年の12月。

司馬炎は禅譲されて「初代晋帝」となり、魏王朝は滅亡となったでした。

 

曹奐は陳留王に封じられて余生を送り、302年に死去。

何気なく、司馬炎(290年没)や劉禅(271年没)よりも生き残っています。

 

 

魏王朝は5代45年。意外と短い…?

 

まぁ、司馬懿の孫の司馬炎が27歳で次の王朝を興すわけですから、そんなに経ってはいないですよね。

 

あと、ここには曹操の活躍期は含まれてないから…。

 

それでも、45年は文章にすると、やっぱり長いね(笑)

 

 

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