全4日間に渡って行われた、徳川宗家最後の合戦「鳥羽・伏見の戦い」。

その2日目の、慶応4年1月5日(1868)
北風吹きすさぶ中、京都の薩摩藩邸に、東方からの訪ね人の姿がありました。

彼の名は、相楽総三(さがらそうぞう)
天保10年(1839)生まれの、29歳の青年でした。


「鳥羽伏見の戦い」は、慶喜の意図しない戦いだったと言われます。

強引な手腕で「王政復古」「徳川宗家排除」まで持ち込んだ薩長に、朝廷内では反発する勢力もありました。

慶喜は、政局の中心地から離れて従順な姿勢を見せ、反薩長派が活躍して政治情勢が変わるのを待ちつつ、諸侯と連絡して巻き返しをするつもりでした。

この作戦が水の泡と帰してしまったのは、江戸で「薩摩藩邸焼き討ち事件」があったことが大きいと考えられています。

「薩摩藩邸焼き討ち事件」は、薩摩が「江戸を攪乱してやろう」と意図して行った乱暴を、出羽庄内藩たちが鎮圧した事件。

これによって、薩摩が立ち上がる口実を与えてしまったこともあるのですが、慶喜が詰める大坂城の鬱憤が、爆発してしまったのが痛恨となりました。

折から「上洛してもいいよ」という指示が下っていたのもあって、上洛は誰にも止められなくなり・・・・あとの顛末は、先日紹介したとおりです。

この薩摩藩による江戸攪乱に、相楽総三も参加していました。

京都薩摩藩邸を訪ねた相楽総三は、西郷隆盛との面会が叶い、江戸での活躍に対してねぎらいの言葉をかけられたと伝わります。


相楽総三は、本名は小島四郎。江戸赤坂の生まれ。

実家は下総の豪農で、赤坂に広大な土地を持つほど大変裕福な家でした。
旗本相手にカネ貸しをしていて、その見返りに郷士の身分を得ていたそうです。
坂本龍馬みたいなかんじですねー。

兄3人が亡くなったり養子に出たりしていたので、四男ながら跡取りとなり、父は大変可愛がって、当時「最高」の教育をしてあげました。
その期待に応えるかのように、四郎は文武両道の人間に育ち、その実力は国学・兵学の私塾を開いて多くの門弟を集めたほどにまで大きかったようです。

しかし、時代は幕末の動乱期。
「俺はこのまま、本の虫で終わっていいのだろうか?」
一大決心した四郎は、私塾を閉めて奥羽へ旅立ちます。

時、和宮降嫁などがあった文久元年(1861)。御年23歳。
国学の大家・平田篤胤が出羽の人だったので、「奥羽へ」と思い立ったようです。

その後、多くの草莽の士たちと交わりながら次第に勢力を集めて「慷慨組」を結成。

八月十八日の政変などがあった、文久3年(1863)
新田義貞の後裔・新田満次郎を擁立して赤城山で挙兵し、関東の尊攘志士と呼応しようと計画。
しかし、満次郎が応じなかったばかりか、通報までしてしまったために失敗。

池田屋事件などがあった、元治元年(1864)
「水戸天狗党」筑波山挙兵に参加。
しかし、参加するうちに「これ尊皇攘夷じゃなくて水戸の内部抗争じゃん・・・・」と気付いて、下山。

失意のうちに実家に帰り、父の説得を容れて結婚までしたのですが、カネ払いと気風の良さが評判になって、小島四郎の名は草莽の志士たちの間では有名になってしまっていました。

有り余る名声と実力、そして熱い想い・・・・。
自身も押さえ切れなくなったのか、家族を説得して上洛を決めます。


第二次征長戦・家茂の薨去・慶喜の将軍就任などが起きた、慶応2年(1866)、上洛。

この時に著した「華夷弁」は、長州藩主・毛利敬親の目にも止まり、添え書きを賜ったと言われています。
しかし、京での活動中、四郎は長州志士との関わりはあまりなく、むしろ薩摩志士との交流を密にしていくことになります。

益満休之助や、伊牟田尚平(←米国大使館通訳ヒュースケンを斬ったことで有名)らを通じて西郷隆盛大久保利通と面識を持つようになり、板垣退助岩倉具視とも交わるようになっていきました。


ところで、当時の日本は「開国」したことによって、激しいインフレに襲われ、庶民の生活は困窮を極めていました。
小島四郎から見た京都の印象が残されています。

「物価が高くて。なんとなく騒々しく、夜は追いはぎや人殺し、押し込み、火付けが多く、首をくくる人や赤子を捨てる人も後を断たない。人斬りは毎晩のようにある」

この現実が、この同情が、後に彼を悲劇の人物に塗り替えてしまうことになります。


慶応年間。江戸薩摩藩邸において「天璋院篤姫さまを擁護する」という名目で、「江戸薩邸浪士隊」が結成。

四郎も参加し、この時「相楽総三」と名を改めます。

目つきの悪いゴロツキを見かけてはわざと肩をぶつけ、スルーした人には「いいねー。君、仲間にならない?」と誘い、殴りかかってきたヤツは投げ飛ばしたり峰打ちしたりして気を殺いでから、「お前、中々見所あるじゃないか。もし食いっぱぐれそうになったら、薩摩藩邸の相楽総三を訪ねて来いや」と金子を渡して追い返し・・・・

この繰り返しで、「江戸薩邸浪士隊」を大勢力に膨れ上がらせます。

このグループが中心となって江戸で「まぜっかえし」をやらかし、「薩摩藩邸焼き討ち事件」に発展したのは、先にも書いたとおり。

庄内藩らは「窮鼠猫を噛む」にならないよう、藩邸を囲む際に1箇所だけわざと手薄にしていたそうです。
相楽は、そこから脱出したのかな・・・・と思われますね。


そして、冒頭の慶応4年1月5日

相楽総三は、面会した西郷隆盛からこんな依頼を受けています。

「これから近江で、綾小路俊実滋野井公寿の2人の公家を旗印とした東征軍の先鋒隊を結成するんだけど、江戸までの沿道の諸藩が忠誠を誓うかどうか、あらかじめ調べておいてくれない?」

相楽は快諾し、「鳥羽伏見の戦い」最終日の1月6日に、京都を出発。

近江坂本で募兵し、鈴木三樹三郎らの元新選組(高台寺党)らとも合流して300余人を集めると、「赤報隊」を結成。
自身は一番隊隊長となりました(二番隊隊長は鈴木三樹三郎)

二卿を通じて「官軍」を名乗る認可をもらうと、さらに「官軍之御印」を得るための嘆願書とともに、関東への進軍を認めてもらう建白書を提出。

この建白書には、インフレで苦しむ庶民を見てきた相楽の、民衆慰撫政策が提案されていました。

「幕府の苛政に苦しんできた関東で、年貢を軽減する触れを出せば、民衆は幕府を見限って、必ずや東征軍の助けとなるに違いありません」

これに対し新政府は「旧幕府領の年貢は、未納の分も含めて去年の半分にして良い」と指示。

1月19日。美濃まで進んでさらに募兵・補給すると、「年貢半減」の高札を各所に立てながら進軍。

この立て札は、行く先々の百姓から大歓迎され、赤報隊の進軍は一大センセーショナルと化していくのでした。


しかし、歓喜に湧き立つ赤報隊に、不穏な空気が漂い始めます。

新政府に依願した「官軍之御印」は、いつまで経っても届かず。

本隊として後発していた二番隊の鈴木三樹三郎のもとに、
「赤報隊が豪商から金品を強奪したらしい」
「赤報隊が朝命に背いて勝手に進軍経路を変えているらしい」
という黒い風評が流れ込んできます。

「世直し官軍として歓迎されているはずなのに、これはどういうことなのだ・・・・?」


この悪い噂の正体は、味方であるはずの岩倉具視がわざと流布させたもの(!)

実は、カネのない新政府は、三井などの豪商から多額の軍資金を調達していました。
その担保としてあてがわれていたのが、旧幕府領からの年貢回収の利権

それだというのに、赤報隊が「年貢半減」を触れてまわっているため、豪商たちが咎めてきていたのです。

「どういうことなんだ!」
「いや、あれはその・・・・アイツらが勝手にやっていることで・・・・」
「だったら、さっさと捕まえて厳罰に処せ!」

岩倉具視が出した結論。それは「赤報隊をニセ官軍として処罰する」というものでした。

完全なる冤罪です。しかし、もうこうするしかなかったのでした。


慶応4年3月1日(1868)

相楽の元に、総督府から「軍儀を開くから出頭するように」と命令が来ます。

「やっと進軍の許可が下りたか!」
相楽は護衛1人を伴って、中山道下諏訪宿にあった総督府に出頭。
すると、あっという間に捕吏に囲まれてしまいます。

抜刀しようとする護衛を制止して、相楽は静粛に縛につきます。
「至誠天に通じる」と信じながら・・・・。


慶応4年3月2日。

総督府は相楽隊30名の出頭を命じ、やってきた彼らを一斉に捕縛。

諏訪大社秋宮の境内に縛り付けられた相楽隊は、憤慨。
その態度を見止めた番兵に殴る蹴るの暴行を受け、氷雨の降りしきる中を放置されました


慶応4年3月3日。午後4時。

相楽総三 以下8名が、何の弁明も許されぬまま、斬首。


「ばっさりと一刀のもとに」

穏やかに言う相楽の態度に、刑吏は動揺。
振り下ろした太刀は緊張のあまり仕損じ、相楽の右肩を斬ってしまいます。

「この腰抜けめ!」

相楽の怒気に追い払われると、横倉喜三次が代わりに太刀をとり。

今度は一刀のもとに落とされました。


相楽らの首は、刑場に晒され。

傍らには、彼らに濡れ衣を着せて殺した新政府が掲げた、「しれっ」とした文面の高札が立てられました。


相楽総三、
右の者、御一新の時節に乗じ、勅命と偽り官軍先鋒嚮導隊と唱え、総督を欺き奉り勝手に進退致し、剰え諸藩へ応接に及び、或いは良民を動し、莫太の金を貪り、種々悪業相働き、其罪数えるに遑あらず、この侭討ち棄て候ては、弥以て大変を醸しつ、其勢い制すべからざるに至り、之に依て誅戮梟首、道路之諸民にしらしむるもの也


夫が「ニセ官軍」という汚名で刑死したと聞いた妻・照(てる)は、一人息子・河次郎を舅と義姉に託し、短刀で喉を刺し貫いて後を追ったといいます。



時は流れ―――

昭和3年11月10日(1928)。

河次郎の息子・木村亀太郎相楽総三の孫にあたる)の尽力によって、相楽総三の冤罪が明かされると、昭和天皇御即位の佳日。相楽総三は「正五位」が贈位されて、ついに名誉は回復されました。

今では、かつて所属していたはずの官軍の一員として、靖国神社にも祀られているそうです。


「清濁併せ呑む」のが政治の世界だなんて、そんなの分かっているつもりだけどさ。

「年貢半減」「年貢を担保に軍資金調達」の、新政府の二枚舌の生贄にさせられた、気の毒な人たちのことを思うと・・・・。

やっぱり濁りきった水は、後味が悪過ぎて呑めたもんじゃないですねぇ。