大河ドラマ「八重の桜」

今週の放送で、「鳥羽・伏見の戦い」が決着。
旧幕府軍は「総大将が逃亡」という大敗を喫し、幕府のみならず、徳川宗家そのものが完全に終わってしまいました。

八重の弟・三郎は戦死し、将来有望な人材・神保修理が切腹。
慶喜に騙されるようにして江戸に拉致された容保。

多大な犠牲を払った結果が・・・・
江戸に戻るのを猛反対したのを押し切られた結果が・・・

「登城禁止処分。はやく会津に帰れ」

なんという残酷な処断。

「もしも慶喜が大坂で踏ん張っていたら」
「もしも容保が断固拒否して大坂に残っていたら」

幕末ファンなら誰もが、悔しさと虚しさの中で考える歴史のifですね・・・・。


さて、「鳥羽・伏見の戦い」といえば、「慶喜の敵前逃亡」とともに、もう1つ有名な出来事があります。

それは、「錦の御旗」が上げられたこと。

「八重の桜」でも、戦場に「錦の御旗」が上がるシーンがありました。


「錦の御旗」は、4日間に渡る鳥羽・伏見の激戦の3日目に登場しました。

慶応4年1月5日早朝。
「錦の御旗」を掲げた一行が京都・東寺の本陣から出発します。

大将は「赤地錦の直垂(ひたたれ)に沢潟威(おもだかおどし)の鎧」という立派な甲冑を着した仁和寺宮(にんなじのみや)嘉彰親王(よしあきらしんのう)

薩摩軍を先陣として鳥羽街道を南下しつつ、斥候を前線に飛ばして戦況を報告させます。

午後になると、銃声が止んだので「淀」近くまで進向。
前線の諸隊に慰労のお言葉を賜ると、今度は「伏見」に赴いて、焼け焦げた市街を巡回。
日が暮れるまでには、京の東寺へと戻っていきました。

ちなみに、将軍宮となった嘉彰親王は、御年23歳
仁和寺の法親王という、つい最近まで寺暮らしをしていた人でして、王政復古で復飾されました。当然、武芸の心得ナシ。

おっかなくてべそかきそうだったのを、護衛でついていた桐野利秋「しゃんとなされませ」と、後ろから刀でおどしていたそうです(^^;


ちなみに、「錦の御旗」は、「太平記」によって有名ではあったものの、当時伝わってなかったので、誰もホンモノを見たことがありませんでした。

そこで、岩倉具視が画策し、宇治醍醐寺の勤皇僧侶・玉松操にデザインさせて作らせた、いわば「ニセモノ」
あらかじめ作っておいて、長州と薩摩がそれぞれ密蔵していたものが、ここぞとばかりに使われました。

「八重の桜」のように、慶喜がそれにハナから気付いていたかどうかは、ワタクシには分かりませんが、薩摩と長州の中には、気付いている人がいたかもしれないな・・・・?とは、思います。

(玉松操は、平安時代に大江匡房が著した「皇旗考」という書を参考にしたらしい。余談ですが、大江匡房は百人一首にも和歌が取られています
(73番歌「高砂の 尾の上の桜 咲きにけり とやまの霞 立たずもあらなむ」権中納言匡房


閑話休題。この「錦の御旗」というと、

正月の寒空に「錦の御旗」が颯爽と翻り、それを見た旧幕府軍が「朝敵になった!」「天皇家に銃弾は撃ち込めない!」と、大混乱になって敗走した。

・・・・なんてイメージがありますけど、こうやって見るとただの戦場視察団(笑)

武芸も戦闘経験もゼロな嘉彰親王を危険にさらすわけにはいかないと考えたのか、安全な所を選んで巡察しただけで終わっています。

敵軍の後方をぐるっと巡っただけで終わった「錦の御旗」ご一行を、旧幕府軍の前線であっても、「見えた」とは到底思えません。

「錦の御旗」は、新政府軍は士気が上がったでしょうが、前線で戦う旧幕府軍には、よく言われる「劇的な効果」ほどの心理的影響は、与えられなかったと思います。

じゃあ、「錦の御旗」は単なるデモンストレーションで終わったのでしょうか?

いやいや・・・・その影響は、じわじわと他のところから忍び寄っていたのです。


ただし、「慶喜は勤皇の水戸藩の生まれで、ゆえに朝敵となるを恐れて大坂へ撤退した」とよく言われますが、その真偽は置いといて、今日はその他の戦局を変えた場面を見ていこうと思います。


京から大坂へは「鳥羽街道」「竹田街道」「伏見街道」の3つが伸びていますが、戦いは「鳥羽街道」「伏見街道」の2ヶ所で幕を上げました。

そんな中、会津の白井五郎太夫という人の部隊が、(どこをどう巡ってきたのか)単体で「竹田街道」を北上。途中、土佐藩の部隊と出くわしました

土佐藩といえば「薩土同盟で薩摩と同盟を組んでいるから、新政府軍側だよね」と見られがち。

ですが、前藩主の山内容堂は親慶喜派(=公議政体派)で、討幕派とは政治的に対立していました。

上級藩士の板垣退助後藤象二郎は「討幕」に傾いていましたが、容堂が「参戦禁止」と厳命していたので、足踏み状態。

そこで、会津・白井五郎太夫隊とばったり出くわした土佐軍の反応は、

「ここは我らが担当している道ゆえ、通すわけには行かぬ!・・・・ところで、あっちのほうに我らの担当ではない道がありましてな。まぁ、早々に立ち去られよ」

こんなかんじ。

白井五郎太夫の部隊は、土佐藩に教えてもらった道を通り、入京直前のところまで進軍できたそうです。
入京できなかったのは「この先に大砲部隊が待ち構えているらしい」という情報があって、一部隊だけで突出しているゆえに警戒して進めなかったから。
(この情報は誤った情報だったようで、もし援軍を得て突破していたら・・・・と考えると、つくづく旧幕府軍の戦術の甘さに嫌気がさします・苦笑)

このシーンからも分かるように、開戦直後の土佐藩は「旧幕府と薩長の私戦」と見做して、傍観の態度を取っていました。

土佐藩兵が新政府軍として本格参戦したのは、最終日である1月6日の早朝
迂回して旧幕府軍の側面を突くという大きな働きを見せ、多大な犠牲も払いました。

1月6日といえば、「錦の御旗」が上がった3日目の翌日
「錦の御旗が上がった=大義は新政府軍にある」として、容堂公が折れた(もしくは前線の藩士が勝手に判断した)と考えられます。


そして「鳥羽・伏見の戦い」では、「淀藩(稲葉家)」「津藩(藤堂家)」という、旧幕府軍にとっては手痛い2つの裏切りがありました。


「淀藩」は10万2千石。
藩主の稲葉家は譜代大名でした。

徳川の味方をすると疑わなかった旧幕府軍は、「淀城で立て直すぞ!」と、鳥羽伏見両方から撤退。
ところが、淀藩は城の門を閉ざしたまま開かず、「入城拒否」を通達しました。

この時、実は藩主・稲葉正邦は老中として江戸詰め中。
淀藩は、留守を守っていた重臣たち独自の判断で、旧幕府に反旗を翻したのでした。

新政府軍は、あっさり陥落したことで淀城の恭順を大いに疑ったのですが、淀城は城下を焼かれまいと必死で慇懃な対応に終始した・・・・と、伝わります。
ゆえに彼らの判断は「藩主不在中の城下を戦火で焼かれたら困る」のもあったのでしょう。

けれども、淀藩の裏切りは、激戦の3日目。「錦の御旗」が上がった当日の夜です。
やはり、判断基準には「朝敵に与するわけにはいかない」という、「錦の御旗」の効果が大きかったのではなかろうか。

ちなみに、稲葉正邦は養子で稲葉家に入り、藩主になった人。
実の父親は、二本松藩の前藩主・丹羽長富でした。

二本松丹羽家の血を引く正邦の淀藩が、味方ではなくなった。
会津藩兵たちの衝撃は、如何ほどだったでしょうかね・・・・。


「津藩」の裏切りは、1月6日激戦の最終日

淀城を「門前払い」され、「橋本」まで退いて旧幕府軍。
敗色濃い中、それでも「ここで食い止める・・・・ッ」と必死の防戦を見せていたところを、淀川の対岸にある山崎関門を固めていた津藩が、突然砲撃。

不意に側面から砲撃を受けた旧幕府軍は、総崩れになって大阪へと退いていったのでした。

津藩藤堂家は、「鳥羽・伏見の戦い」の初日・1月3日から山崎関門を固めていましたが、「これって薩長と旧幕府の私戦だよね?」と、当初は傍観するつもりだったみたい。

それが、この戦いの意味を探って議論を繰り返すうちに「いや、私戦なら尚更、旧幕府のカタを持つべきじゃね?」という方向に、次第にまとまっていきました。

そこで、旧幕府軍に(山崎方面は兵数が少な過ぎるから)1部隊をこっちにも回してくれたら一緒に進軍する」と注進。

旧幕府軍の副総督・塚原昌義はことのほか喜び、「派遣する派遣するw」と約束。
しかし、いつまで経っても来ず、来たと思ったら撤退してきた敗残兵!
「我らの約束を反故にした上に、もう趨勢は決したか・・・・」津藩はガッカリ。

そこへ新政府から使者がやってきて、「お前ら全然戦ってないけど、一体どっちの味方をする気なんだ?」と詰問されます。

「私戦だから、どっちの味方もしない」
「されば、勅命であったらどうだ?」
「勅命であれば仕方がない・・・・」
「ならば、よろしい」

そこに「錦の御旗」の情報をキャッチ。

今更旧幕府軍を裏切るのは良心が痛む。
でも、もはやどうにもならない・・・・。

天王山の砲台は、旧幕府軍に向けて火を吹くことになりました。

こうして見ると津藩の裏切りは、突然のことではなく、このような積み重ねがあってのことだと分かります。

「藤堂家の裏切りは、藩祖・高虎公以来のお家芸」と、旧幕府軍は悔しさのあまり罵ったそうですが、当初は旧幕府軍の味方をしようとしていたわけです。

そのようにならなかったのは、山崎方面に軍を配置しなかった、旧幕府軍の首脳部たちの戦術的な落ち度

ホンマに戦犯を探すつもりなんてないんですけど、旧幕府軍の戦術の甘さには、腹が立つを通り越して呆れ果ててしまいます・・・・(-"-;

そして、旧幕府軍に裏切られた形になっていることが忘れられ、津藩の苦渋の反旗が、戦国時代の藤堂高虎の名誉まで害しているようになっているのが、なんだかワタクシには気の毒に思えてなりません。

津藩や藤堂高虎のこと、あんまり悪く言わないでやって欲しいな・・・・と、ワタクシは願っている次第です。


・・・・話がとっ散らかって読みにくい記事になってしまったような気がしますが(汗)

「土佐藩の参戦」「淀藩の門前払い」「津藩の裏切り」

そこには、「錦の御旗」の影響が少なからずあり、決してデモンストレーションでは終わりはしなかったと、ワタクシは考えています。

そして、きっと旧幕府軍の誰にも目視されることのなかった「錦の御旗」は、観念上のものでしかなかったと言えるかと思います。

でも、だからこそ、その存在は大きく大きく膨れ上がったのかもしれません。

新政府軍にとってはニセモノで、旧幕府軍にとっては観念上のものでしかない「錦の御旗」が翻ったことで、「鳥羽・伏見の戦い」は勢いよく倒れていって、260年君臨した徳川宗家は終わってしまいました

人間は歴史の中というより、物語の中で生きているのかもしれない。

そう考えると、美しくもあり、なんだかマヌケな生き物だなぁと。

「鳥羽・伏見の戦い」の流れを見ると、ふとそんな思いに駆られてしまったりしますねー。