大河ドラマ「八重の桜」では、いよいよ「鳥羽・伏見の戦い」が始まってしまいました。

「大政奉還」から始まった徳川慶喜の巻き返し策は、この敗戦で頓挫。

「戊辰戦争」まで引き起こしてしまい、慶喜一生のトラウマとなってしまったみたいです(-"-;


この「鳥羽・伏見の戦い」は、「少数の兵力が多数の兵力を破った戦い」のひとつ。

旧幕府軍は新政府軍の3倍の兵力を有しながら、無残にも敗れ去っていったのです。

何故そんな結果になったのか・・・・?

これを考察するのは、戦術が苦手なワタクシには到底無理な話なんですが(笑)、経過を語ったついでのオマケとしてなら、できるかなと思いまして。

今日は「鳥羽・伏見の戦い」について、紹介してみたいと思います。
 
 
「鳥羽・伏見の戦い」は、慶応4年(1868)1月3日~6日の、4日間に渡って行われた激戦です。
 
戦いの舞台は、京と大坂をつなぐ主要街道の2つ、鳥羽街道伏見街道が選ばれました。
 
・・・・と、言葉を羅列しても分かりにくいので、地図を描いてみましたw
 

 

 

 

 

 

 

 

(ただ、我が家には「鳥羽伏見の戦い」に関する図解が乏しくて、この地図は本から読んだ想像や独自の資料解釈が混じっています。正解になるように努力はしましたが、自信満々ではないので、あまり鵜呑みにはなさらないでくださいね・・・・)

 
京から伏見・大坂方面へは、西から順に「鳥羽街道」「竹田街道」「伏見街道」の3本の街道が南へおりています。
 
このうちの「鳥羽街道」「伏見街道」が、両軍衝突の戦場となり、「鳥羽・伏見の戦い」と呼ばれるようになったのですねー。
 
地図を眺めて見ると「川に囲まれて戦いにくそうな地形だな」という印象を受けるかと思います。
 
事実、このあたりは湿地だらけで、街道は狭くて軍を展開できないので、戦いにくかったようです。

「伏見」はもともと「伏水」と書いていたようで、大きな河川があったり、湿地帯が広がっていたりと、このあたりの地形は「水のテーマパーク」という様相を呈していました。
 
しかし、「川に囲まれている」ということは、水運が便利ということ。
 
この川によって兵士や銃や大砲が運ばれ、吸い寄せられるようにこの地に集結したと、見ることもできますねー。
 
 
「鳥羽・伏見の戦い」は、戦略・戦術・政治と色々なものがフクザツに影響し合っていて、丁寧にやればやるほど、この地形のような泥沼にハマって進まなくなると思うので(笑)、重要なことも軽微なことも全部すっ飛ばして、とりあえず今日は経過だけで紹介してみようと思います。
 
 
京都の東寺付近から南下する鳥羽街道は、途中「小枝橋」で鴨川を渡って、「淀」の方向へ伸びます。
 
1月3日
運命の1日目は、この「小枝橋」付近で幕を上げます。
 
慶喜の命を受け、先行部隊として京入りを目指した旧幕府軍は、京都見廻組が護衛を務めていました。
「坂本龍馬暗殺の実行犯」として名高い、佐々木只三郎率いる白兵戦部隊です。
 
鳥羽街道を北上する途中、「上鳥羽村」付近で新政府軍の作った簡易関所に止められます。
 
「慶喜公の命で京入りするから、そこを通しなさい」
「上に聞いてみるから、しばし下がって待ってくれ」
 
見廻組は銃を(何故か)持っていなかったので、問答を繰り返しながら後退。
こうして「小枝橋」を渡って退くと、薩摩軍が素早く橋を占拠。
適切な場所に布陣して、橋頭堡を築きあげます。
薩摩軍は、旧幕府軍を通さない気マンマン(笑)
 
夕刻。埒が明かないと判断した旧幕府軍は、ついに強行突破を決断
2列で突っ込んできたところを、薩摩軍が発砲開始
「鳥羽・伏見の戦い」の火蓋が切って落とされました。

「まさか撃ってくるとは!」
意外な攻撃に驚いた旧幕府軍は、あっという間に押し返されて、「富ノ森」付近まで後退。
新政府軍は「下鳥羽村」で防衛ラインを引いて、鳥羽方面の戦いは1日目を終えました。
 
 
伏見は河港として重要な拠点で、軍事・通商を管轄するために伏見奉行所がありました。
 
大政奉還によって伏見奉行職は廃止されましたが、それよりも前の時点で最後の奉行が亡くなっていたので、伏見奉行は空席・奉行所は空き家という状態でした。
 
開戦前日の1月2日夕刻。この旧伏見奉行所に、旧幕府軍の総指揮官である陸軍奉行・竹中丹後守重固が入ります。
 
これを知った新政府軍は、伏見街道を一気に下って、「伏見の治安維持」を名目に旧伏見奉行所を包囲
 
奉行所を護衛していた会津藩兵新選組と、「通せ」「通さぬ」の押し問答が始まりました。
 
そこに、鳥羽街道方面から轟き渡る砲声。
これを合図として、伏見方面も戦闘開始
一気に混戦状態に陥ります。
 
伏見奉行所は、小高いところに陣取った新政府軍の大砲をモロにくらって、はかなくも陥落・炎上。
 
会津藩兵も奮戦しますが、戦慣れした長州軍や薩摩軍に阻まれて大苦戦。
大河ドラマでもあったように、家老・林権助が3発被弾して斃れるという悲劇に見舞われてしまいました。
 
総司令官の竹中丹後守は、奉行所を落ち延びて「中書島」まで退却。
ここで踏ん張るかと思いきや、明け方には一気に「淀」まで逃亡(苦笑)
総司令官がいなくなった前線は戦術的な統率が取れなくなってしまいました。

伏見方面の旧幕府軍は、とりあえず「中書島」あたりで防衛ラインを引いて、この夜を明かすのでした。
 
 
2日目(1月4日)。
伏見方面は、これといった戦いはありませんでした。
 
指揮系統を失った旧幕府軍の前線部隊は、「どうしたらいいか分かりません!」という状態。

しばらくは、それぞれの判断で新政府軍と撃ち合っていましたが、午後になると、せっかく築いた「中書島」あたりの防御ラインを捨てて、めいめいで退却を始めます。
 
「伏見は動きがないな」と判断した新政府軍は、伏見方面から鳥羽方面へ兵力を移動させて、戦況の打開を図ります。
 
旧幕府軍と激突して「富ノ森」を陥落させますが、これが実は陽動作戦(?)
勢いに乗って飛び出したところを幕府歩兵隊に叩かれて、「富ノ森」を取り返されてしまうのでした。

教科書なんかでは、あっさり負けてしまった印象の旧幕府軍ですが、結構がんばっています(笑)
 
 
3日目(1月5日)。
 
西郷・大久保・岩倉らが画策した切り札「錦の御旗」が発動。
新政府軍は士気が上がり、旧幕府軍は動揺が広がりました。
 
新政府軍は、兵力を「鳥羽方面」「山崎方面」「伏見方面」の3手に分け、「淀」を目指す作戦に打って出ます。
 
「鳥羽方面」は、「富ノ森」付近で幕府歩兵隊や会津藩兵と正面衝突して血みどろの攻防戦。
ほっかむり被って白刃を閃かせた、有名な「大山弥助どんの、ほっかむり斬り込み」があったのは、ここです。
 
「伏見方面」は、「千両松」付近で激突。
会津自慢の槍隊は、ほぼ全滅。
新選組も3分の1を失うダメージを受け、古参の幹部・井上源三郎が戦死してしまいます。
 
激戦の末、旧幕府軍は「富ノ森」「千両松」の、どちらも支えきれなくなって放棄。
 
「淀」まで引いて篭城戦をしようとしますが、(譜代であるはずの)淀城が門を閉ざして拒否したため、やむなく「橋本」まで後退するハメになってしまいました。
 
 
4日目(1月6日)。
 
「橋本」は、淀川と男山に挟まれた隘路で、防御の地の利がありました。
ここに防衛ラインを引いた旧幕府軍は、総攻撃を仕掛ける新政府軍を必死で食い止めます。
 
新選組の山崎烝が重傷を負い(後に死亡)、吉村貫一郎が行方不明になったのは、このあたりです。
 
 
死に物狂いで戦う旧幕府軍に、新政府軍も攻めあぐねますが、その時。
 
旧幕府軍は、淀川の向こうの「山崎」に陣取っていた味方の津藩から砲弾が浴びせかけられました。
 
「藤堂家が裏切った!」
思いがけない西側からの砲撃に、旧幕府軍は総崩れ。

開戦直前、新政府軍と「通せ」「しばし待て」のやり取りをしていた、見廻組の佐々木只三郎も被弾し、これが元で死亡してしまいました。
 
「橋本」の戦線を保てなくなった旧幕府軍は撤退を始め、「鳥羽・伏見の戦い」の決着は大坂城での籠城戦に持ち越されます。
 
・・・・と思っていたところ、この日の夜に、総大将の慶喜が「開陽丸」に乗って江戸へ逃亡
 
置き去りにされたことを知った旧幕府軍は、茫然自失。
仕方がないので、7日~8日にかけて、各々大坂城を去っていくのでした。
 
 
以上、これが「鳥羽・伏見の戦い」のあらまし。
一応、要点は抑えたつもりですが、どうでしょう?
駆け足過ぎな気もしますがー(^^;
 

 

 

 

 


さて、新政府軍の3倍近くの兵力があった旧幕府軍は、どうして負けたのか?
 
よく「銃の性能の差だった」と言われたりもしますが、この戦いでは新政府軍も旧幕府軍も、銃は新式に変更済み。

さらに言えば、大河ドラマで覚馬が悔やんでいたように、会津は旧式銃ばかりでしたが、しかし会津藩兵の活躍ぶりには目を見張るところがあります。

兵器の性能も確かに重要なんでしょうが、それを敗因に結びつけるのは、いささか性急な気がします。


「旧幕府軍は古来の突撃白兵戦術に固執して、近代戦を仕掛ける新政府軍に完敗した」とも言われます。

確かに旧幕府軍は無謀な突撃は何度も行っており、その様は「中世戦術VS近世戦術」のようにも見えました。
(慶喜が導入した、フランス式調練に従った突撃という説もあり)

長州兵は農民や町人も混じっていましたが、薩摩兵の大体は武士階級。
「薩摩示現流」の使い手たちなので、接近戦でも決して引けをとりません。
「白兵戦は旧幕府軍の専売特許」ではないのです。


それよりも注目なのは、指揮系統のダメさ加減・・・・。

陸軍奉行の竹中重固は、初日に後方も後方の「淀」まで後退してしまい、おかげで前線は統率を失って機能しなくなってしまいました。

そのために、2日目には勝手に伏見を放棄。
新政府軍に、鳥羽方面へ軍勢を回す余裕を与えてしまいました。

もし、あそこで「中書島」あたりで踏ん張って、伏見方面の軍を釘付けにしていたら・・・・?

勝てたかどうかは分かりませんが、決着は延びたかもしれません。

決着が延びれば、慶喜得意の外交手腕が発揮されて、政治的に巻き返せたかもしれません。


戦犯探しは趣味じゃないですが(笑)、この敗戦は竹中重固の戦術能力のなさにあると。
ワタクシは、そう思わずにはいられないのでした。



余談ですが、この竹中重固は、来年の大河ドラマ「軍師官兵衛」にも登場する、秀吉の軍師・竹中半兵衛の末裔だったりします。

「天才の末裔が有能とは限らない」なんて、なんだか聞き飽きた感じもありますけど、虚しい言葉ですねぇ・・・・。