大河ドラマ「八重の桜」、第1話「ならぬことはならぬ」見ました。
 
 
画面がとても綺麗で、テレビが壊れたのかと思った!(イヤミw)
 
初回延長版でしたが、時間が経つのが早い!
ワタクシはとても楽しく拝見できました。
 
以下、見所だと思ったところを列挙して見たいと思いますw
 
 
■アメリカ南北戦争
 
南北戦争好きとしては、映像で見れてめちゃくちゃ嬉しい!
 
1863年の大激戦「ゲティスバーグの戦い」
 
南軍が前進して、北軍からの砲弾を受けまくってましたから、「ピケットの突撃」のシーンなのかな。
となると、南軍の騎兵部隊はスチュアート将軍の旗下だろうか。
(迎え撃った北軍の騎兵部隊はカスター将軍かな?)
 
アメリカ南北戦争と会津の戊辰戦争を交互にリンクさせる手法。
 
「南北戦争で使われていた銃が、その後日本にやってきました」という説明のための演出だったようですね。
 
こういう表現は、歴史を大観している感じがしていいですねw
 
 
ともあれ、まさかNHK大河ドラマで、サザンクロス(南軍の旗)やリンカーン大統領(北軍のリーダー)を見れるとは思いませんでしたなー。

眼福眼福w
 
 
■会津藩PV
 
八重は、弘化2年(1845年12月1日)の生まれ。
 
黒船来航(嘉永6年=1853)は9歳の時。
桜田門外の変(安政7年=1860)は15歳の時。
新選組創立(文久3年=1863)は19歳の時。
大政奉還(慶応3年=1867)は22歳の時。
 
というかんじ。
 
 
で、「八重の桜」は、どこから始めるんだろう?と思ったら、容保公の領国入りからですかw
 
嘉永4年(1851)。八重6歳。兄・覚馬23歳。
 
ドラマの半分くらいは、領国入りされたばかりの容保公に会津の風土を案内してまわるという内容でした。
 
会津藩紹介PVというかんじ(笑)
 
 
演じておられる綾野剛サンは、「容保公って、こんなかんじの人だったんだろうな」と思わせてくれる容貌・立ち振る舞いの役者サンで、ナイス配役w
 
というか、「会津藩主・松平容保」が見れるのって、珍しいのではなかろうか。
 
黒谷金戒光明寺におられる「京都守護職・松平容保」のお姿とか、「会津戦争の総大将・松平容保」の姿なら、他作品でもよく見かけるけれども・・・・。
 
文久2年(1862年)に京へ出立するまでの11年間、どんなお姿が見れるのか楽しみですねw
 
 
■追鳥狩
 
西郷頼母を演じておられるのは西田敏行サン。
 
会津城代家老として知られている方ですが、実は武芸の達人
会津藩御留流の合気柔術の伝承者で、免許まで持っていたりします。
 
(御留流というのは、「藩外の人に教えるの禁止ね」とされている流派のこと)
 
余談ですが、明治になってから、孤児になった甥っ子に柔術を教えるのですが、それが「姿三四郎」のモデルになった西郷四郎。
 
で、西田敏行が、そんな達人には見えないなぁ・・・・とか思いつつ見ておりましたが(^^;

というか、本当は山本覚馬より年下なんですけどね・・・・。
 
しかし、貫禄は十分。というか存在感がハンパないw
 
 
彼の見所は、なんといっても鳥を敵に見立てた模擬戦「追鳥狩(おいとりがり)」のシーン。
 
頼母が一番鳥を挙げることを目指して馬を駆けていたところ、突然馬がストップしてしまいます。
 
それは、木の上から見ていた八重が落としてしまった草履に驚いたから。
 
「ここは戦場だぞ!この戦場に草履を投げ込むとは何事だ!」
「木さ登って戦見下ろしてたのか。この無礼者が!」
「おなごとはいえど、侍の子だぞ。こんだにわきまえのねえ事で、なじょすんだ!!」
 
頼母サン、もう大激怒。
兄・覚馬が飛んできて必死に謝っても、謹厳居士の頼母の腹は納まりません。
 
そこに藩主・容保公が通りかかり、
 
「高く高くと競い合って登っていたのであろう。それもまた子どもらの戦ではないか」
「武士らしく名乗って出たのだ。卑怯な振る舞いはしてはおらぬぞ」
 
と、静かに頼母を宥めます。
 
会津の武士道を持ち出されては、情状酌量しないわけにはいかず(笑)
 
しかし、「ならぬものはならぬ」の道理を曲げるわけにも行かず。
 
そこで申し付けた罰が「シッペイ」でした。
 
指二本に「ハァー!」と息を吹きかけ、八重を威嚇する頼母サン。
 
「厳しさ」「根の優しさ」「愛情の深さ」「どうしょうもない頑固一徹さ」、ぜんぶ出ていましたね。

これぞ西郷頼母という感じがしましたw
 
 
その裏で、「ヒャッハー!」とばかりに一番鳥を掻っ攫っていった佐川官兵衛@中村獅童に、何故か笑ってしまいましたw
 
「風林火山」の時の 上杉謙信@Gackt ばりに、戦となると空気読まない荒武者になる。
 
やべぇ、佐川官兵衛好きになりそうw
 
 
ちなみに、「シッペイ」は「什の掟」に背いた子供への制裁の1つです。
 
制裁の中で一番軽いのは「無念」
みんなに向かって「無念でありました」と、お辞儀をして詫びることです。
 
次に軽いのが「竹篦(しっぺい)」
手のひらか手の甲か、何回やるか、罰の重さによって加減を変えたみたい。
 
三番目の一番重いのが「絶交」
いわゆる「仲間はずれにされる」ことで、「派切る(はぎる)」とも言われます。
 
小学生のときに修学旅行で行った、日新館(会津藩の藩校)でガイドしてもらったのを思い出しましたw
 
(その後「しっぺ大会」になった我がクラス。子供は影響されやすい・・・・)
 
【参考】會津藩校 日新館―会津藩・白虎隊の学び舎
http://www.nisshinkan.jp/

(↑探したらありました。「日新館について」→「什の掟」と進んでね)
 
 
■山本家
 
八重の結婚前の名前は「山本八重」
 
というわけで、生家・山本家の風景ですが・・・・生活観があっていいねw
 
八重「(目をキラキラさせて)私も兄さまみてえに鉄砲さ撃ってみてぇ!」
覚馬「(黙ってにっこり)」
 母 「(困った顔で)この子はまた、とてつもねぇこと言い出して!」
 父 「(食事しつつ平然と)おなごは薙刀するもんだ」
三郎「(俺も俺も!)おれも薙刀やりてぇ!」
 父 「(食事しつつ平然と)お前は鉄砲さ、やらねばダメだ」
 
なんていう、食事シーンとか。
 
「蔵さ放り込んだ。飯なんぞ食わすなよ」と、父からお仕置き食らうシーンで、兄の覚馬がこっそり握り飯を差し入れに来るところからの、
 
八重「私、お役に立ちてぇ!いつか強くなって、若殿様に御恩さ返してぇ!兄さま、私、鉄砲さやりてぇ!」
覚馬「(温かい笑みで)おう、分かった」
 
という兄妹愛とか、いいなーいいなーなのですw
 
このあたりは、「平清盛」にはなかった、女の子が主役の醍醐味ですなー。
 
 
そうそう、八重のお友達の高木時尾ちゃん。
後に、意外な人物と結婚します。
 
なので、忘れないように注目ですよw
 
(歴史にネタバレなんていう言葉はない・・・・と思いつつも、ここでは書かないことにしておきます。検索すればすぐ出てくると思いますがw)
 
 
■幕末プロローグ
 
会津の子供の遊びは、竹馬合戦に石合戦(!)、雪合戦、凧合戦。
 
で、八重と凧合戦をしていたのが、吉田寅次郎
後の吉田松陰先生w(ビビるさーん。出ましたよー)
 
肥後藩士の宮部鼎蔵と一緒に東北を旅しているのですねw
 
 
この場面から、覚馬の江戸遊学へと場面が切り替わりました。
 
佐久間象山勝麟太郎と、幕末志士がわらわらと登場して、豪華絢爛!(幕末好きとしては)
 
後に八重と深く関わることになる川崎尚之助も登場しましたね。
 
 
それにしても、幕末を代表する奇人・佐久間象山が良かったw
 
「24斤カノン砲に砲弾を詰め、斜角10度でそれを放った時。その時の弾着弾頭は?」
 
こんな入試問題、解けるわけないw
 
 
そして、覚馬兄さん、大河史上何人目かの黒船目撃。
 
海岸を守っていたのが「六文銭」で、「おおっ」と思わず声を上げてしまったw
 
佐久間象山が「黒船を造る!」と息巻いて、ふと思ったのですが、これより十数年後、箱館戦争の時代までに、幕府海軍はペリー艦隊と戦える戦力を持っていたようです。
 
ただし、「開陽丸」はオランダの中古だし、「回天丸」はプロイセン(ドイツ)の中古。
日露戦争の「三笠」もイギリス製で、国産ではないんですよね。
 
佐久間象山の「黒船を造る!」が国産として実現したのは、戦艦なら明治42年(1909)の「薩摩」となるようです。
 
覚馬が江戸遊学に発った嘉永3年(1850)から、59年後のこと。
 
技術革新は、まだまだ始まったばかりですね・・・・。
 
 
 
というわけで、感想諸々は以上。

長い上に、あんまり感想になってない気もしますが・・・・申し訳ない。
 
 
最近、「今度の大河は幕末なのに、なんか(自分の中も周囲も)盛り上がらないなー」とくすぶっていたのですが、見終わったら一気に幕末の波が押し寄せてきたという感じw

この勢いに乗って、これから1年間の幕末を堪能したいものですなー。