7世紀の中国は、唐王朝の時代。

 

2代皇帝の太宗(李世民)は、家臣に向かって、このように問いました。

 

 

「創業と守成は、いずれが難きや?」 


政権を興すのと、政権を維持するのは、どちらが難しいか? 


建国の功臣・房玄齢は、次のように答えました。

 

『創業』です。戦乱の群雄を平らげて、腕に覚えのある豪のものを従えなければなりません。これは並大抵のことではありませんから」 

 

すると、統治の名臣・魏徴が反論します。

 

「為政者というのもは、困難のうちに地位を得て、安逸のうちにこれを失います。難しいのは『守成』でしょう」 

 

 

どっちも、もっともな言い分。

 

「創業と守成は、いずれが難きや?」 

 

はてさて、アナタはどちらだと思いますか・・・・?

 

 

『創業』は、ものすごいエネルギーを消耗する行為。

 

才能がなければ果たせることはないし、配下や同盟者を手放さないためにカリスマも必要。

 

そして何よりも強い運が必要です。
金では買えない、努力では届かない、素質なんてものがない、どこに転がってるか分からない、そんな運というものが必要不可欠。

 

だから、創業の志半ばにして果ててしまっても、何の不思議もありません。

もう、大変「難きもの」と言えるでしょう。

 

 

一方の『守成』もまた、相当のエネルギー才能カリスマ、そしてを必要とします。

 

「え・・・・?創業者が築き遺した資産と人材を運用し、親の七光りを利用して、守りに入るだけでしょ?」 

 

なんて思われた方は、甘い甘い(笑)

 

下克上と実力主義の戦国時代、生き残れなかった「守成の人」の、なんと多いことか。

 

駿河の今川家。
美濃の斉藤家。
甲斐の武田家。
相模の北条家。
土佐の長宗我部家。
備前の宇喜多家。
豊後の大友家。

・・・・。

 

安土・桃山時代を創ったあの織田家豊臣家でさえも、守成を潰そうとする運命の過酷な洗礼を受けて、没落・滅亡しています。

 

中には凡庸で、どうしょうもないグータラな日々を送った自業自得な(?)二代目もいましたが、有能で、文武両道に勤め、質素勤勉に暮らした、非の打ち所のない二代目も少なくありません。

 

武田勝頼は寡欲で勤勉、贅沢も淫乱もなく、武の鍛錬も怠らず、「3年は死を隠せ」という父・信玄の遺命を守り抜いた実直の人でした。

 

宇喜多秀家は教養に長け、朝鮮の役に見れるように軍事的才能にも優れ、時の権力者・秀吉に大変可愛がられるなど取り込みに成功しました。

 

でも、生き残れなかった。 

 

やはり、守成もまた「難きもの」という証左だと言えるのではないでしょうか。

 

だから、守成に成功した二代目と言うのは、創業を成し遂げた初代に引けも取らない「人物」であると思います。

 

 

でも、守成の人って、なんかぱっとしませんよね・・・・。

 

創業者は、やってることが派手で目立つものだから、その苦労が評価されやすいという面があります。

 

戦国時代に創業を為した「初代」たちは、とかく武勇伝とエピソードの伝説に彩られていることからも、それは容易に伺えようと言うもの。

 

一方の『守成』は、地味です。もう、とにかく地味。

 

「初代は知ってるけど、二代目って誰だっけ?」なんて言われることはしょっちゅう。

 

例えば、仙台伊達家

創業者・政宗は知ってるけど、二代目って誰だっけ?

 

例えば、土佐山内家

創業者・一豊は知ってるけど、二代目って誰だっけ?

 

そして、江戸徳川家

創業者・家康は知ってるけど、二代目って誰だっけ?


・・・・って、なっちゃいます?

 



今日、1月24日は徳川秀忠の命日

というわけで、ここまでは秀忠の話を書くための前置きだったのでした。

ああ、長かった(笑)

 

偉大なる初代・家康と、何となく有名な三代・家光にはさまれた秀忠。

 

名前に「家」が入ってないせいか、15代の中でも思い出せないほうの部類に入る人。

 

地味。とにかく地味。

 

 

でも、徳川家は二代目で滅びることなく、260年も存続しました。

 

『守成』は難きもの・・・・それなのに、2世紀半です。たいしたものでしょう。


さっき挙げたように、滅亡していく二代目が多い中、生き残りに成功した二代目というのもおりました。

 

代表格は、越後の雄・上杉景勝と、中国の覇者・毛利輝元

 

考えてみれば、この2人もまた地味です。

 

地味であることは、もしかしたら『守成』を為すには欠かせない資質だったのかもしれませんねー?

 

 

秀忠には、彼の地味さがよく表れたエピソードがいくつかあるんですが、その中でワタクシが一番好きな話を紹介します。

 

 

ある日、秀忠は息子・家光が最も尊敬する人物が、今は亡き家康であることを知ります。

 

「わしではなく、父上(家康)か」 

 

秀忠はそう呟くと、家光の養育係である土井利勝と乳母の春日局を自分の前に呼びつけました。

 

「家光が、わしよりも家康公に傾倒していると言うのは本当か?」 

 

「は、はい。然様でございます・・・・(びくびく)」 

 

プライドを傷つけられた父・秀忠は何をしでかすのか?

内心不安げだった2人に、秀忠は告げます。

 

「ならば、頼みがある。今後、家光が迷うようなことがあったなら、『おじい様ならどうなさると思われますか?』と問いかけるようにしてもらいたい
「そうすれば、きっと家光は賢明で勇気ある決断を選び取っていく名君になれることだろう」 


秀忠は自らの父としての虚栄心を捨ててまで、後継者の育成を重視したのでした・・・・という話。

 

 

この話は「地味である自分をわきまえ、プライドよりも実を選ぶ」「己を棄てて後進を育む思い遣り」という美談として伝わっているのですが、ワタクシは秀忠の“したたかさ”がよく出ていると思います。

 

秀忠は、死んだ父・家康を東照大権現として奉り、幕府の精神的支柱として“利用”しましたし、実娘(和子)を皇室に嫁がせ、朝廷を骨抜きにするために“利用”しています。

 

そして、子を育てるに当たり、父としての威厳を保つよりも、亡き家康を“利用”することを選ぶ。

 

己を棄ててまでも、父や娘でさえ利用してまでも、守成を為すしたたかさ。

 

これこそが、秀忠の凄味ではないかなと思っております。

 

ただの地味な人でもなく、ただの律義者でもなく、ただの恐妻家でもなく、ただの中継ぎでもない。 

 

やっぱ秀忠ってタダモノじゃないよな・・・・と、戦国好きな人は、もっともっと彼を評価しようよ!という呼びかけを、この機会にしてみたりして(笑)

 

余談ですが、冒頭の問いは、帝王学の必読書「貞観政要」に出てくる話。

 

李世民は、唐王朝における実質の創業者で、形式的には二代目という、稀有な経験の持ち主。

 

前王朝・隋が二代目で滅亡する様を、間近に見ていた人であり、そして長く続く唐を興した人物です。

 

その御方の答えは、この通り。

 

「房玄齢は朕とともに九死に一生を得る苦労をした。だから創業の苦しさを知っている。魏徴は朕とともに天下を治めて心が緩むことを恐れている。だから守成の成り難きを理解している。両人の申すところはもっともなことだ。ただ、今はすでに創業は成った。今後は守成に力を注いで参ろう」 

 

 

「創業と守成、どっちが難きや?」の正解は、2つ○をつけて、ちょっぴり大人さ・・・・ですか。なんだそりゃ(笑)

 

一応「貞観政要」には、「古より業を創めてこれを失うものは少なく、成るを守ってこれを失うもの多し」と註がついているので、強いて結論を出すなら「守成の方が難きなり」としているようです。

 

うーん、この結論もどうかなぁ・・・・。

李世民の応じを反映してないし・・・・。

 

・・・・勝手なワタクシ的解釈を、許していただけるのであるなら。

 

「今はすでに創業は成った。今後は守成に力を注いで参ろう」 

 

という李世民の発言から、真意は「創業から守成に移るタイミングが大事だよ」ってあたりになりそうな気がしますね。