今日は、こちらのコラムにツッコミ入れようかとw
 
★禁断の男色は、本当の純愛だった!? 男色の歴史と現代の結婚のかたち

http://www.tokiomonsta.tv/news/article/197-hitomebo-sodomy-was-a-pure-love.html

 
 
大河ドラマ「平清盛」で、悪左府・藤原頼長サマが「男を押し倒す」シーンがNHKで放送され、ワタクシの周辺はにわかに色めき立ちました(笑)
 
アレやるのかなー?アレやらんだろう。アレやりやがった!というかんじ。
 
日曜のゴールデンに男同士のアッー!を放送することの賛否はともかく、NHKのこの挑戦は高く買いたい!
是非とも、今後もタブーを破るようなドラマ作りをやっていって欲しいと、切に願いたいところです。

(宗教とか、南北朝とか、朝鮮出兵とか、大日本帝国とか・・・・まぁ無理だろうな)

 
 
で、コラムの内容に戻ってみると・・・・どうも使い古されているうえに偏った史観で語られていて、ちょっとひどいような気がします。
 
 
-------以下引用---------------------------------
 ここまで聞いていると、そもそも日本は、性に対してとても奔放な文化だったという印象ですが、堀江先生によれば「現代における、『性には慎み深くあれ』という考えが生まれたのは明治時代以降。これらはキリスト教文化の影響によるもの」とのこと。
------------------------------引用以上----------
 
 
「性には慎み深くあれ」は、異性愛に対しても同様に言っています。淫乱は七つの大罪の1つですしね。
だから、これで「江戸時代は男色に寛容だった」「キリスト教の影響で男色だけが弾圧された」な論調ってのは、ちょっとヘンじゃあないのかなぁ。
 
歴史好きの中には、ちょっと飛躍してコレを明治政府の「富国強兵政策」と一緒に論じる人もいます。
男同士の性愛では子供は産めないから「産めよ増やせよ」に反するし、当時は「追いつけ追い越せ」と西洋の文明を追いかけていたから、「男色=野蛮」という評判を気にしたというわけです。

野蛮という評価を嫌ったというのはなんとなく納得できますが、批判されたからって性癖を簡単に変えられるのかね?(^^:

それに、かつて衆道が盛んだったのは、僧侶とともに武士階級でした。武士は職業軍人ですから、こちらも「産めよ増やせよ」だったはず。
だから、なんで武士は「黙認(?)」で富国強兵政策下では「弾圧」だったのか?違いは何なのか?説明がつきません。
 
男色文化の衰退と明治維新(キリスト教、西洋思想、近代社会)って、実はあんまり関係ないんじゃないかなと、思ったりするのです。
 
 
江戸時代に「陰間茶屋(かげまぢゃや)と呼ばれていた風俗店がありました。
 
「陰間」というのは「男性を相手にする美少年」のこと。
 
平安時代中期の英雄・源義家が寵愛していた美少年・鎌倉権五郎景政が名前の由来と言われています(景政=かげまさ→かげま→陰間)
 
陰間茶屋は、歌舞伎の若役者が、公演の合間に女装して、女形の修行がてら男性相手の客商売をしていた場所で、もともとは芝居小屋の隣に建てられていましたが、(女犯を禁止されている)僧侶が多い門前町に建てられるよういなっていきました。
 
そして、徳川吉宗やら松平定信やらの「緊縮財政派(=ドケチ改革者)」のあおりをうけ、激減を繰り返しながら存続していきましたが、幕末の頃にはほとんど残っていなかったそうです。
(彰義隊が壊滅した「上野戦争」の折に、最後の「陰間茶屋」が炎上してしまい、以降この手のお店はなくなってしまいます)
 
 
「キリスト教」「近代社会」「西洋思想」が浸透するよりも前に、明治を待たずに男色の風俗施設は消えかかっていたわけです。
 
「明治時代に入って来た近代化・西洋思想のせいで、男色文化がなくなった」っていうのは、無理があるでしょう。
 
そう論ずるよりも、「江戸時代を通して需要がなくなった」・・・・という切り口で見たほうが、真実が見えてくるんじゃないのかなぁ。
 
 
江戸の人口は、当初は男性比率が異常に過多で「おんな日照りの町」と呼ばれていました。
しかし、時代が下るにしたがって、男女比は小さくなっていきます。
 
そして「吉原」「島原」のような公認ではない、女色を売る非合法の営業「岡場所」が栄えていくようになると、それに比例するかのように陰間茶屋は衰退していったようです。
 
これって、「同じ非合法なら少年より女の方がいい」と、需給バランスが変化したからなのではなかろうか?
 
男色が武士のたしなみだったのは、女は戦場に連れて行けなかったことから始まったんだろうし、僧侶にも流行っていたのは女犯が破門級の禁忌だったから。
 
なんで江戸時代、岡場所が流行って陰間茶屋は衰退したのかなって考えると、日本の「男色文化」っていうのは「同性愛」ではなくて、「少年が女性の代わりをさせられていた」だけだった、これが真相だからというのが、答えになるのではないでしょうか。
 
だから、確かに「厳格主義」ではなかったかもしれないけど、「寛容だった」と評されてしまうのは、一方的な見方じゃないのかなぁと考えてしまいます。
 
 
ちなみに、江戸時代には男色(衆道)を禁止した藩もありました。
 
禁止の理由は「衆道の相手のために死を厭わなくなるから」という理由。
 
つまり「主君のために死ぬ」という武士道と、命がけの衆道は相容れられないという、儒教的な考え方であって、もちろん「キリスト教」「西洋思想」「近代社会」が原因ではありません(だから、主君を相手の衆道なら、矛盾は生じないので禁止の対象外)
 
このように、当時は当時なりの理由によって、風俗は禁止されたり問題化されたりしていたのです。
 
 
最後に、「掛け値なしの恋愛」だの「夫婦の縁よりも深い」だの「男色こそが本当の純愛」だのと書かれていますが、これはあまりにも面白おかしく脚色し過ぎでしょう。
 
このコラムの著者は、江戸時代に近松門左衛門の心中モノが流行り、社会問題になったことを、どう説明する気なんだろうか。
 
これに憧れたり本気になったりして、純粋に愛し合う男女による本当の心中事件までが流行してしまい、わざわざ禁止令が出たり、「心中」が禁止用語になったりという、幕府が苦労した史実がありますからね・・・・。
 


素人のツッコミなので間違っている箇所もあるでしょうが、商業用に誇張しているとはいえ、ここまで素人に突っ込ませるなよと言いたくなるようなコラムだったので、ネタとして取り上げてみました。

ついでに、これ書いた人のプロフィールにサブカル系歴史作家との紹介が・・・・ああ、なるほど。なんとなく納得です(^^;