忙しくて夢のように毎日が過ぎているうちに、ブログ未更新3か月、
「デロイを探せ!」に至っては半年のブランクです。
本当に久しぶりですが、「デロイを探せ!(その52)」のリリースです。
お題は幻の南朝鮮電化区間計画について。
まずはおさらいです。
旧鮮鉄時代、1944年に開通した京元線電化区間に加えて、旧京慶線に
ついても堤川/丹陽/豊基の急峻区間の電化工事が進み、車輛も、
京元線用契約20両とは別枠で6両(三菱デロイ4両、日立デロニ2両)の
発注が済んでいたが、1945年8月までには結局工事は完成せず、という
所が実態となっておりました。
電化工事自体は鮮交会の資料によると1945年10月の工事完工予定と
なっていたとも言われています。
デロイを探せ?(その36)からの抜粋・・・
「以下鉄道ピクトリアル1970年1月号(233号)の記事からの抜粋です。
「注記」部分はゴンブロ主宰者の補足です。
「中央線(注記:戦前の京慶線)の電化については・・・(中略)・・・
旧鮮鉄末期既に計画されていたが、解放後電化計画の一部として、
丹陽-豊基間23km(最大勾配25パーミナル、ループ線あり)をDC 3KV
にて工事再開することとし、ECA(注記:米国経済協力局)援助資金により、
デロイ型EL5両のほか所要機器を日本から導入、既存の1両と合せ
6両にて電気運転の計画であった。そして1950年動乱勃発時までには、
送電線・電線路工事共、すでに90%完成していたが、動乱中数次に亙る
激戦場となり、施設の大部分は破損の上、EL5両は北鮮軍により持ち
去られるに至り、休戦後は一般復旧が優先した為計画は頓挫するに
至った。
その後10年を経た第一次5か年計画作成の折、動力近代化方策の一環と
して、京釜・京仁線と共に再度電化計画が取り上げられたが、所要資金
調達や、当時の電力事情問題も絡み、実現を見なかった。」
今回ご紹介する文献は朝鮮通信社発行の「朝鮮年鑑1948年版」です。
刊行は1947年12月のソウル。まだ軍政下のいわゆる南朝鮮にて発行
された年鑑ですが、都立図書館に原本が残るこの本の、運輸通信/国有
鉄道の項にその項はありました。
政治的な影響を受けた用語がありますがそのまま翻訳します。
また漢字は現在のものに直しました。
丹陽電鉄工事
日帝が企図し建設途中で中止となった京慶線堤川豊基間 10.3粁の
電鐵化工事は運輸部にて継続実施され、八十八個所の隧道
(〇〇○三文字不明) 1947年7月に完成しているのだが、変電所施設
のみが未完成である。これにより(この工事が完成すれば)南朝鮮では
最初の電鐵が出現するものであり、この運転が開始されれば輸送力
の80%アップが予定されている。この電鐵に使用する電気機関車
四台が既に(?)日本から到着している。
【考察】
南部での電化計画について直接的な記述がある一級の史料です。
(但しキロ数の10.3キロは謎。元々の電化計画は50キロ、再開後の
工事区間は23キロ程でした)
年鑑自体は1947年12月に発行されておりますが、原稿締切が1947年
夏ですと日本からの出荷台数については辻褄があいます
(戦後出荷のデロイ6, 7、デロイ31,32のことを言っている?)
また現在に至るまで韓国側で言う電化区間のことを電鉄という
言い方は1947年当時からあったことが窺われ、興味深いものが
あります。
それにしても、1945年当時から南のどこかで保管中であったはずの
もう一台のデロイ、もしくはデロニの記載まではありません・・・
【おまけ】
この「朝鮮年鑑」は基本的に反日モードで書かれており
(巻頭特集がいきなり「日本の朝鮮侵略小史」)、そういう意味
でも記事の信憑性すら政治的バイアスがかかっているような
気もするのですが、一方で当時非合法化されつつあった南朝鮮
労働党に関する記載もそれなりにあり、更には人名録には朴憲永
(当時、南朝鮮労働党党首 後に越北して北で副首相。動乱の敗戦
責任を取らされ後に粛清)や、北の初代指導者の項目もあり、何より
も随所に隠そうとしても隠しきれない日帝残滓があるのは興味深い
です。
以下は目次部分ですが、仁川にある株式会社福島組と言うのは、
明らかに1945年以前からあった会社の筈です。モロ日帝残滓。
企業広告には日本統治時代からの連続性を感じさせるものが多いの
ですが、清酒(樽酒)の広告も残っていました。
次回は、これも貴重な、南朝鮮電化区間の乗務員の訓練が実際に
日本で始まっていたことを示す資料を御紹介します。
アップの間隔が空きすぎないようにしないといかんですね。
それではまた!