三原車輛製作所(その16) 韓国向けD51(その5) 出荷の背景 | ゴンブロ!(ゴンの徒然日記)

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えらく間隔が空いてしまったのですが、三原車輛製作所製作の韓国向けD51の第五弾です。

 

1067mm軌間の南樺太、台湾と異なり、そもそも韓国の鉄道は基本標準軌(一部762mm軌間もありましたが標準軌がメイン)である為、当時三原車輛製作所が、わざわざ韓国向けに標準軌化したD512両だけ出荷したのは大きな謎とされている、それは何故?という点を今回は取り上げたいと思います。

 

 

まずはおさらいから、19458月以降に日本から韓国向けに出荷された蒸機(狭軌除く)は以下の通りです。

ミカ7は以下緑色部分です。

 

この表は前回もご紹介したものですが、今回朱記にて各社の見込生産品の情報も追記しました。この見込生産というのは結局生産するも正式発注なく、最終的に各社とも泣く泣く1965年頃までに(誤植ではありません。新幹線開業の翌年の1965)廃棄したという曰くつきのグループです。

 

それを日本での製造年ごとにプロットしたのが以下のグラフです。韓国への出荷年ではありませんのでご注意ください。

グラフ2


  
  

前回の詳細表と、このグラフから当時の製造の状況を大胆に推測してみると以下の通りです。

1.     1948年以前に製造された車輛(戦災海没再生機、戦中からの出荷待ち機を含む)24両の内、交易公団を通じた出荷が19両あり、通常の輸出形態を取ったものが大半と思われる。

2.     一方1949年に製造された車輛はない。

3.     1950年の製造車輛32両の内、製造月が判っているのは27両だが、実に26両が195011月の製造となっている。19507月製造になっているものが1両だけあるが、残りの31両は動乱勃発(625日)の緊急発注分と考えてしまってよいのではないか。各社ハンでおしたように11月製造(竣工?)となっているのはいかにもクサい。

 

 

また、今回当時の三原車輛製作所の方の書いた文献を調べた所、概要以下くだりがあること判明。

 

・・・昭和25625日、朝鮮動乱が勃発。韓国の戦略物資の輸送力アップの為、米軍から日本の車輛メーカに商談が持ち込まれました。残念ながら当所にはミカイ型蒸気機関車の図面がなく、それを保有していた日車、日立、川崎が優位に立って商談が進み、当所は僅かD51 2両とミカイ型蒸機4両だけの受注に終わりました。日車、日立、川崎はそれぞれ15両ずつ受注し、鼻高々だったようです・・・。」

 

「・・・こうして(ミカイの)図面を入手したことで態勢挽回を図り、その後、ミカイ型蒸機を10両見越生産しました。しかし休戦によって、完成車5両と未完成車5両がデッドストックとなり、裏門の近くに7-8年も放置【ゴンブロ主宰者注 1960年頃まで?されていたことは皆様も御存知と思います。この機関車をスクラップ化するため切断作業にとりかかった時、私はそこに何回も行って、見越しの失敗の責を痛感したものです・・・」

 

ここから推測して、標準軌化D51の出荷の理由を考えてみると以下の通りです。

これは例によってゴンブロ主宰者の妄想が多分に入っておりますので、その点割り引いて考えてください。

 

1.     おそらく1950年夏の米軍(第8軍)からの仕様提示は「引合対象は旧満鉄ミカイもしくはその同等機種。納期は緊急。戦争遂行の為に待ったなし。見積も即時提出せよ」だったと思われる。

2.     三原車輛製作所は残念ながら当時ミカイの図面を保有しておらず、「他社からの図面融通を条件として対応可能」的な条件付き見積しか提出出来なかった。泣く子も黙るGHQが相手でもあり、見積全面辞退と言う訳にいかず、見積は見積で出した。

3.     その結果、他社には大きく遅れを取るミカイ4両の受注に終わった。

4.     2,3の過程で、米軍から、「三原の図面の事情は判ったが、ミカイがダメなら何か代案出したれよ。状況を理解しているのか?」と大変な圧力をかけられた。

5.     そこで、韓国の現地事情とか、鉄道のシステムやら現地の補修やら取りあえず無視して、手持ちの図面や材料で、最短納期で貨物用機を製造・納入出来る方法を何とかひねりだした。それが標準軌D51

6.     かなり強引な手法なので、後にも先にもこんな無理は一度だけ。米軍も無理に製造・納入させてはみたものの、やはり運用にあたっては色々と厄介な点が多く、継続納入はさせなかった。

7.     もしかすると4がなくて、最初から代案として5を提出したかもしれない。

 

三原では国鉄向けのD51の製造は1944年に完了していますが、1949-1950年にソ連(樺太)向けに5両、1951年に台湾向けに2両が製造されていますから、治具や機材等は手元にあったのだと思われます。

もしかすると1951年の台湾向けD51の製造は実際はもっと早くて、それを転用したのか?とも思ったのですが、台湾向けD51の発注自体が1951年のようなので、転用はないと思われます・・・。

 

 

今回字ばかりになってしまいました。

 

当時1950年12月に三原で撮影された、南朝鮮(韓国)向けのミカ5(旧満鉄ミカイ)の写真です。


 

 

炭水車にUnited States Army(合衆国陸軍)の文字。ナンバーは9416と見えます。

三原の文献によれば竣工は19501213日のようなので、写真の情報とも符合します。同車は、韓国への出荷後 釜山工廠で1952412日に現地竣工している形となっている模様で、韓国での形式はミカ5 38のようです。

 


 

炭水車に見えるマークは、アメリカ陸軍輸送科(United States Army Transportation Corpsでしょう。

 

 

陸軍輸送科のマーク

ミカ7D51)の製造の背景に米軍圧力が間接的にあったとするのは単なる推測なのですが、その後1952年段階でも各社横並びのように満鉄ミカイの見越生産に手を出し(三菱三原は10両、他社も日車10両、汽車5両、日立5両と総計30両にも及んでいる。川崎車輛は大丈夫だったのか??)、いずれも結局注文は来ないまま、廃棄処分せざるを得なくなっている状態を見ますと、当時の米軍の陰陽交々の強烈なプレッシャーがあったことの何やら傍証になるのではないでしょうか。

 

 

それではまた!