三原車両製作所で製作された海外向けD51の第二弾の御紹介です
前回、
台湾は日本統治時代からほぼ日本のシステムでの鉄道敷設が進めら
また、あまり知られていない所では、
日本の敗戦後、1945年に日本から台湾の施政権を回収した国民党政権は
・大陸での国共内戦(1946-1949年)と敗北、台湾への敗走
・台湾での暴動発生と鎮圧(1947年2月)
という大混乱はありましたが、本土の失陥後も台湾での統治をまがりなりにも継続。
大陸での経済失策と軍事的敗北、政府幹部の極度の腐敗に、米国から一時は「政権担当能力無し」
そんな米国のテコ入れの一側面として、
戦前台湾向けにはC57が6両、D51が32両使用されていましたが、戦後更にC57は8両、D51は5両が新製されることとなりました。
既に日本の国鉄向けの蒸気新製は1948年時点で終了(E10が最後)していましたが
形式 両数 メーカー 製作年
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C57 8両 日立製作所 1953年
D51 3両 汽車製造 1951年
同上 2両 三原製作所 1951年
(C57,D51の台湾での名称は各々CT270とDT650です)
さる方の御好意による当時の大変貴重な写真をご覧ください。
撮影場所は例によって三原車輛工場の側線部分です。
外観で目につくのが特有の排障器です。(カウキャッチャー)
そのほかはほぼ日本向けD51と同じ・・・
以前ご紹介した当時の子供向け図鑑の三原工場内部の風景にも、
排障器、給水温め器のある蒸気(ナンバープレートはまだありません)にご注目。
これは間違いなくDT686かDT687でしょう。とすると撮影は1950年から1951年にかけてか?
当時、輸出車輛の出荷自体が珍しかったからか、
DT687 三原工場の試験線での風景と思われます・・・
同車2両が台湾に出荷された後の同地での活躍は残念ながら記録で探し出せ
撮影年次は不明ですが、すっかり現地に溶け込み、貫禄十分の姿です。(服装から見ると1960年代の撮影か??)
最後のおまけは台湾における「戦後」の郵政事情です。
まず、
戦前の普通切手から、台湾南部の鵞鑾鼻燈台(オーロワンピ燈台)を題材とした6銭切手をご紹介します。
日中戦争の戦時下とはいえ日本の国力があった1939年に発行されている為
前回の「デロイを探せ!」でもご紹介の通り、朝鮮半島の金剛山(クムガンサン)は7銭切手の題材に取り上げられており、6銭は台湾、7銭は朝鮮と一応万遍なく帝国内の風土が扱われていることも気になるところです。
台湾銀行券(日本銀行券との等価交換が保証された地方銀行券)の10円札
台湾では1945年8月15日から国民党による台湾総督府施政権接収の194
そう、日本本土では占領軍の進駐、幣原喜重郎内閣の成立等、
しかしながら、日本本土との断絶が続く中、切手在庫の不足が深刻化した為に台湾の郵政当局は1945年10月21日に独自切手の発行に踏み切りました。これは、戦争末期に内地との通信途絶を予想し本土との密接な相談の下、現地印刷局にて準備済であったから出来た芸当です。
三種類発行された切手から3銭切手です。
簡単な図柄ですが、菊の御紋章と「大日本帝国郵便」の字が入る姿は戦前の国体そのまま・・・
この切手は「台湾地方切手」という名前でカタログにも記載あり、
発行直後の10月25日には施政権の返還、11月3日には郵政権の接収とあった為、実際に本来の目的で使用された例は僅かではありますが、政治上、
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