僕は他人とつるむのがあまり得意じゃない。


子供の頃は引っ込み思案だったし、臆病だった。


運動音痴だったし、芸術的な才能もなかった。


喧嘩も弱かったから、いつもいじめられてばかりいた。


休みの日は、自転車でどこまでも走るのが好きだった。


じっと釣りをするのも好きだった。


他人が側にいないことが、僕にとって一番の幸せだった。


いま、この話をしても信じてくれる人はあまりいない。


それなりに世渡りを覚えたから、外面は社交的に見えるらしい。


どうやったら、そんな気さくになれるの?なんて言われることもある。


でも、中身はなにも変わってない。びびりでシャイな自分のままだ。


自分ってのは一生つきあってあげなきゃならない一番の友だち。


その友だちの一番いい部分を引き出してあげるのが、僕の大切な役割。


自分という大の親友のことを精一杯考えてあげること。


それが、僕自身にできるもっとも大事なチャレンジなんだ。























































































「この歳になって山にハマってしまった」と話したら、「その歳だからハマッたんですよ」と山好きの後輩に言われた。

なるほど、若くして出会っていてもみつけられなかった、感じられなかった山の素晴らしさに、いまだからこそ酔いしれることができたのかもしれない。

トレイルに入った時のマイナス・イオン、色づき始めた草木の美しさ、積もった枯葉の香り。

「自然の魅力」って近くにあって遠い存在だったんだな…と実感。

その素晴らしさを手繰り寄せたのが「加齢」だなんて、エイジングもまんざら捨てたもんじゃない。

「歳をとる」のではなく「歳を重ねる」。

思い出を積み重ねて、また新しい感動に出会う。

エイジングを嫌わず、仲良く暮らせば、素晴らしい人生!

ときには、そんな考え方もいいんじゃない?


$GO MY LIFE ☆ りゅうのブログ
五輪招致が決まり、お祭りムードの日本。

私が注目したのは、今回惜しくも選外となったトルコとスペインの声。

決選投票後の街角インタビューでは、いずれの国も「東京おめでとう」「素晴らしい五輪開催を!」とうれしいコメントが多かった。

もし日本が落選していたら、日本国民からはいわゆる「戦勝国」を賞賛する声が聞けただろうか。パブリック・ビューイングに興じた若者たちからこのような清々しいコメントを聞けただろうか。

さて、昨今話題となっている「柔道」。武道たる柔道が精神修養の一つとしている言葉が「自他共栄」。とても意義深いこの言葉をひもといてみたい。

まず、そもそも勝負(競争)というものは相手がいなければ存在しない。相手がいればこそ、高いレベルでの勝負に発展していく。すなわち、自分のいるステージは相手とともに高くなっていく。同時に、観る側にも当然「見応え」度合が上がってくる。

一人ではできない「勝負」。勝つ者と負ける者は表裏一体であり、ともに繁栄、栄華を求めようとする仲であることを忘れてはならない。

そして、勝負である限り、いずれ一方が勝ち、他方が負けることは必然である。その瞬間まではもちろん同情などする余地はない。

だが、ひとたび勝負が終われば、その瞬間から「ありがとう」と言える自分でなければならない。この切りかえが、私たち日本人にはなかなか難しい。

だからこそ、柔道では自他共栄という訓示を掲げて精神修養する必要性があったのだろうと、私は考える。

相撲の力士は勝負のあと、真っ先にライバルとして戦ってくれた相手力士に手を差し伸べて体を起こす。これぞ、まさしく自他共栄の精神なのである。

千秋楽。ここ一番の大勝負後の清々しい振る舞いに拍手を送った記憶が誰しもあるのではないか。

私たちは日常生活のなかで日々さまざまな勝負、競争に遭遇している。

その場面場面で、「自他共栄」の精神を思い出し、ともに繁栄を目指す同志を賞賛する心構えを持てば、より良い人間関係を築いていけるのではないだろうか。

明日の素晴らしい日本に期待を寄せて。

今朝、いつものランニングコースを走っていて、ふと誰かが話しかけてくるのを耳にした。


以前、夜桜の下を走っていて、散り際の桜に声をかけられた話をここに書いたことがあった。


きょう話しかけてきたのは、誰あろう「紫陽花」だった。


蒸し暑いなかダラダラ汗を流しながら走っていると、活力みなぎるオーラを感じた。


いままさに色づきはじめた紫陽花たちがそこにいた。



GO MY LIFE ☆ りゅうのブログ


梅雨を歓迎しながらオーラを放つその姿は、蒸し暑く不快な空間で唯一無二のポジティブオーラを放っている。


思わず立ち止まり、その力強い姿をカメラに収める。


紫陽花は梅雨の蒸し暑い季節を歓迎し、雨を懇願しているようだ。


「桜のように秀でた存在ではないけど、このじめじめした季節に彩を添えたい」


そんな声が聞こえた。


「欲を言えば、もう少し雨が降るともっと輝けるんだけど…」


見れば、紫陽花の脚元は土がカラカラだ。爆発したいんだけど、いまひとつ天の滴が足りないのだ。


自然と対話できる感性。


こんな風に生んでくれた両親に感謝の念が絶えない。



GO MY LIFE ☆ りゅうのブログ

最近、ランニングをしながら音楽を聴いている人をよく見かける。


私もたまに安全な場所でロング走をするときなどはヘッドセットをつけるときがあるが、基本的には音楽を聴きながら走ることには反対だ。


よく安全面で反対意見を述べるアスリートがいるが、それも一理ある。


しかし、私は少し違った視点から、「聴きながら走」に強く反対したい。


じゃ、なんで?ってなるわけだが、答えは「自分の声(音)が聴こえなくなるから」である。


例えば、走る時の靴底の音。これが左右違う音やリズムの時は故障が発生しやすい。こころやからだのどこかに変調をきたしているとき、「ズズッ、チャ」とかおかしな音が聞こえてくる。


さて、私はラン練習のとき、必ず自分と対話する。これは、長いトライアスロンのときも然りだ。


「調子はどう?」「天気、最高だね!」「結構体重しぼったね!」等々。


時には、身体のパーツに話しかけることもある。


「左膝。今日は痛まないね」「腰。疲れ残ってる?」とか。


答えは、どこの誰の返答より素直に返ってくる。歯に衣着せずに、だ。


「調子いいよ。疲れてる割に動く!」「調子悪いな。練習不足だし」ってな具合に。


何度も繰り返していると、ある一定の法則に気がつく。


それは、こころもからだも元気なときは限りなく透明な答えがビシッと揃い踏みするということ。


その反対のときは、どうにも助けようのない暗い答えばかりずらりと並ぶということ。しかも、言い訳つきで…。


どちらの流れであれ、対話のあとは決まってある一つの道に辿りつく。


さらなる目標を目指すも、暗闇から抜け出すも、すべては自分次第。練習しかないんだと。


こうした葛藤、格闘は、己に語りかけずして始まらない。一度悶々として、そこから抜け出すには「辛抱」が要る。


そんな力は、いわゆる「ながら」練習からは生まれてこない。


浅井えり子氏も瀬古利彦氏も、各々の著書のなかで、自らの声、音を聞けと盛んに言っている。


だから始めたというわけではないが、私は「自分との対話」を皆さんに強く薦めたい。


一方通行の「聴きながら走」から、双方向の「語り合いながら走」へ。


あなたも今日から「おい、きんにくん!どうなんだい?」と、どこかの芸人さんのように自分のパーツに語りかけてみては?



GO MY LIFE ☆ りゅうのブログ