すべての人間は快楽の原理に基いて日々動いている。

 

快楽的な行為は可能だが、非快楽的な恐怖を伴う行為は不可能。

 

無理は祟る。

 

人間の行動は快楽のポイントを刺激するか、恐怖を回避させるために動かすか、そのどちらかしかない。

 

ここまでは概ね、理解できる…しかしながら、そのスタイルというかモードというのだろうか。

 

人の性感帯は変更ができないものだ。

 

人によってその形式がまったく異なるということについて、理解し合えないことが、今日の人間関係の諸問題なのではないか。

 

しかし、自由を求める人が、急に束縛されたい欲求も生まれることはあれど、人は基本的に自由を選ぶと思う。拘束されたい欲望に走る自由も認められなければならない。

 

全裸で屋外を駆けずり回る人が窮屈なボンテージに身を包みだす。

 

…どちらも性奴隷に変わりはない気もするが。。。