黙ってることって私にとって最も難しいことのひとつだったんだけど最近!
やっと必要じゃないことは言わないっていうことができるようになってきました。ぱちぱち
これまでも秘密は守ってきたつもりだけど、そうじゃなくて
自分についての情報で、取捨選択できるようになったってこと!
これって大人じゃない?大人じゃない?そっか!ふつうか!
今までは「あけっぴろげ」なことに関してうぬぼれていたと思うし
私は何も隠していないですよー?
ほら、全部あなたたちにお話ししてきていますよー?
という態度で逆に何かを隠そうとしてきたのではないかとさえ思う。くらい。
そもそもそういうスタンスも、
私は何一つ隠しちゃいないんだからあなたは私のことを理解しなければいけない
という依頼心というか、甘えの発露なのであって
話せば分かってもらえるだろうというのはそもそも幼児的な、母子分離以前の未発達な要求と言うかなんというか、相手にコンテイニングを義務付けるような操作的な暗示だと思った。なう!よくわかんないけど。(笑)
まあこれをこんなところに書いているのもここに書いたんだから見てくれればわかってくれるよねという甘えであって、そういう意味で自己顕示欲の強い人たちと言うのは見かけの主体性やらバイタリティやらとは逆説的に未分化な人たちなんだろうと思う。
つまり、ブログだのツイッターだのが流行っていることはそれらのユーザーが子ども帰りしていることを表していると曲解(自分で言っとくの)できるし、そういった文化が流行りやすく広く受け入れられるこの日本という国は、土居健郎先生が1971年にあの有名な『甘えの構造』を著した頃から何ら変わらぬ、「甘え」の蔓延した国なんでしょうなあ
けどもそれがわるいとは一言もいっておらんのに、なんとなく嫌な感じがするのは語感の問題か、それとも私が体験していることがそちらさんの真実であるパターンか。
そえば、たまにミステリアスって言われるのは私が自分のことをよくわからないと思っているからそう感じさせているのかもしれないな。
この、相手のことを自分のこととして体験すること、逆に自分のことを相手のこととして体験させること、っていう機能はほんとに面白いし無限感がやばい。(ぼきゃひん)
ここで就活ワードの「自己分析」っていう言葉が思い浮かんだけど、個人的にはこれほど愚かなもんは無いように思う。
いままであんまり考えてこなかった人がいきなり自分について考えましたって言ったってそれで何かわかるなら苦労しませんわって人はゴマンといるだろうよ
世界(人間がいっぱい集まった集団の集合という意味で考える世界)は、数え切れないほど多くの「自分」が集まって成り立っているわけで、だからこの世界のことを知ろうと思ったとき自分とは何かというところに目が向くのは間違っていないと思う
むしろ、自分自身と言うものも知らないで世界のなんとやらを知ろうと言う方が傲慢だし、順序が違うって上手くいかないように思う
だからそういう意味で、内省する人間は賢いといえるかもしれないが、内省には終わりが無いものだから彼らは永遠に答えを得ることはできない。その意味では永遠に賢者になることはできない長旅に出てしまっているのだろうなあ。ぼんぼやーじゅっつって。
だから、そんなもの知ろうと努めたところで意味なんか成せやしないわと初めから自分についてなんて考えずに、世界と「自分」との間にある境界を薄くして生きることもまた賢いのかもしれない。
最も愚かなのは、「自己分析の本」を売ること、それを買ってやること、その上で「できた」と思うことだと思う
自己分析なんて、できるかよお
出来た人いるなら会ってみたいわ。その人はさぞかし物知りで、この世を見渡す力がおありなんでしょうね。
暗いかもしれないけど、「自分」を「解り」きってしまったら死にたくなると思う。
というか、生きる意味が無くなると思う。生きて、探すものが無くなっちゃう気がするんだけど、そうじゃないかなあ?
かくのあきたー
いいやあこのままぶっこもお