5月4日(土)付の毎日新聞の企画特集。

「みどりの日」にちなみ、エコパークについて松田裕之氏(横浜国立大学大学院教授)と東儀秀樹氏(雅楽師)の対談が載っており、対談の内容はとりあえず関係無く、東儀秀樹のプロフィールの中に「雅楽と現代音楽の垣根を越えた演奏・作品制作に取り組む」とある。

しかし、僕が知る限りにおいて、東儀氏はポピュラー音楽のいわゆるバンド演奏をバックに、篳篥などの雅楽器でメロディーを演奏する、という、尺八の藤原道三や、今なら「和楽器バンド」のような「西洋音楽の楽器やスタイルをベースに、篳篥などの『平均律ではない』和楽器をむりやり平均律に合わせて、メロディーを乗せる」という、非常に安直な手法を「新しい音楽」などと自称する最近の流行りの『先駆け』的な存在であるのは認める。

しかし、そこに『垣根を越え』るほどの、本質的な新しさがあるのかな?

例えば、東儀氏がやってるような、バンド演奏でメロディーを篳篥で吹くような音楽は、たしかに篳篥の音には物珍しさはあるから、「新しい」と感じるのだろうが、篳篥をフルートに置換したら音楽が成立しなくなるほど『本質的に』新しいのか?

そんなこと無いだろ。

つまり、篳篥をフルートに置換可能な音楽には「新しさ」は無いのよ。

およそ「現代音楽との垣根」に触れるような、高い次元で西洋音楽と日本音楽は『本質的に異質』であり、衝突はしても『決して調和しない』という、現代音楽の分野では、例えば武満徹が30年以上も前に「琵琶、尺八とオーケストラのための《ノヴェンバー・ステップス》」で、はっきりと結論を示し、世界的な常識として定着しているのに、今さら和楽器を平均律でバンドと一緒に演奏しただけのことを「現代音楽の垣根」とかいうのは、視点の次元が全くズレている。

このプロフィールで「現代音楽」と書いている記者の頭の中で鳴っている「現代音楽」とは、どう考えても、単に「現代のポピュラー音楽」に過ぎないとしか思えない。

「現代音楽」とは何かを正しく理解している、あるいは実際に聴いたことがあるなら、べつに東儀氏の音楽を批判する気は無いが「現代音楽」と比較することなど、絶対にあり得ない。

記者の知識が、呆れるほど不足している。