うっわ~
これが白沢宿の宿場通りですか :*:・( ̄∀ ̄)・:*:


昔は通りの中央にあったと言う、用水路は両側になっていますけど
ほらほら、水車ですよ о(ж>▽<)y ☆


こっちのは
親子水車ですね (=⌒▽⌒=)


通りの中程には駐在所・・・


いいえ
番所があります ( ̄□ ̄;)!!


白沢宿の由来が書かれていますけど


本陣を勤めた宇加地家と脇本陣を勤めた福田家はその昔、徳川家康が上杉景勝を討つために
進軍した時、先陣の諸将達の鬼怒川渡りに協力し氏家まで兵を進めた功績が認められ

関が原の戦後に問屋を命ぜられ、宿の構成が許されると
白沢村の宇加地家が本陣となり、上岡本村の福田家は脇本陣となったとの事が書かれています

脇本陣を勤めた福田家は宿場の入口近くにあったそうですけど
今はなくなってしまいました

本陣の宇加地家は?
って言うと

実は番所の隣だったりします


本陣に掲げられている掲示板ですけど
面白いことが書いてあります


近隣の宿場の里程ですけど


奥州道中白河宿より、宇都宮宿迄弐拾壱里
余りを、膝栗毛によって踏破した記念に
この高札を掲げる。
平成参年(一九九一)拾壱月四日
奥州街道白澤宿の会
奥州街道膝栗毛の会

って書いてありますけど
いったい ”膝栗毛” って何だろう? (?_?)

江戸時代の珍道中記 ”東海道中膝栗毛” はご存知ですかね?
”弥次喜多道中記” の方が知られているんでしょうか?

膝栗毛って言うのは
自分の膝を栗毛の馬の代わりにして乗る

って言う意味で
つまり徒歩行のことなんですね (‐^▽^‐)

さっきから気になっていたんですけど
駐在所の番所や本陣に木の表札がありますけど

こちらのお宅にも


ほら
このお宅にも


どうやら宿場通りでは
かつての屋号の表札が立てられえているみたいですね (=⌒▽⌒=)

白沢宿をでるとじきに
№30白沢一里塚跡があったはずなんですけど・・・ (´・ω・`) 見落としました

白沢一里塚は ”白沢河原バス停” 付近に
記念碑が建てられているそうです (;^_^A 開田之碑の奥側ね


さぁ
鬼怒川を渡ると ”さくら市” に入りますよ o(^▽^)o


一度国道R4に合流したのち国道R293に分岐する
川岸交差点ですけど


この付近に№31 ”氏家一里塚” があったようですが
現在は痕跡もなし

仕方なく事前の情報を元に
次の一里塚から逆算するとこの交差点の辺りなのですが・・・ (´・ω・`)

R293に入って最初の信号の
氏家交差点ですけど


左に曲がるとすぐに奥州街道19番目の宿場 ”氏家宿本陣跡” があります


案内も何もありませんが
上の写真の食堂の一角が本陣跡地

この位置は ”伝馬町” って言うんですね


実はこの氏家宿は複数の街道が交差していて
奥州道中・会津西街道・会津中街道・原方街道の結節点として

江戸と奥州の物資の集散地として繁昌し
奥州道中10宿(白沢から白河)のうち最も賑わいを見せたそうです

先の氏家一里塚なんですけど
実は帰宅後に色々と調べてみたら

旧道を間違えていたらしく
赤い線が正しい旧道で青い線で進んでしまったんですね


そうすると川岸交差点(青い丸)付近に一里塚となるんですけど
国道R4に合流する前を右に正しい旧道を進めば

途中に左手に ”お伊勢の森” があって
先のT字路の右角に道標があったはずなんですね

氏家の宿場を離れ
ふと見ると黄金に輝く麦畑


そう言えば、この日(6月1日)は
七十二候の ”麦秋至(ばくしゅうにいたる)” でした

そろそろ
次の一里塚があるはずなんですけど・・・ ( ̄_ ̄ i) 現存なんだけど


あれ?
奇遇ですねぇ~

一里塚さんって言うお宅ですよ (^O^)/


え! 違うだろうって?

まさかっ! ( ̄□ ̄;)!!

でしたね
お庭に一里塚があるみたいですよ Σ(・ω・ノ)ノ!


やっぱりそうですね
こちらが奥州街道№32 ”狭間田(松山新田)一里塚” ですよ (^O^)/


次の宿場へは、旧道(赤い線)を進もうかと思ったんですけど
すぐに山道になるみたいで、足はまだ痛むので国道(青い線)から喜連川に入ることにしました


結局、斜めに伸びている山を超えることになるんですけど・・・ (;^_^A

突然
巨大な道祖神がっ! ( ̄□ ̄;)!! でかっ!


道祖神っていうのは路傍の神様ですけど

実際のところ
なんの神様なのかよくわかっていないんですね (;^_^A

やや年も暮、春立てる霞の空に、白川の関越えんと

そぞろ神の物につきて心をくるはせ
道祖神(だうそじん)のまねきにあひて取る物手につかず~


と詠んだのは松尾芭蕉ですけど
奥の細道の冒頭部分ですね

この部分以降は道祖神も出てきませんから
旅の路傍の象徴としてなんでしょうね

厄災の侵入防止とか子孫繁栄を祈願するため
村や集落の境界線などにまつられていますけど

旅や交通安全の神様としての
信仰もあるんですね

写真の物は
地元警察などによる交通安全を祈願するものでした (;^_^A

国道R293から県道r114に乗り換えて
喜連川の宿場に向います


あ! 喜連川って温泉街でもあったんですね


そう言えば随分前に
JRの中吊り広告に喜連川の分譲があったけど

各区画に温泉が引かれていたっけ

でも
この桜並木は見事ですね


”早乙女の桜並木” は有名で
この600mの間にソメイヨシノが130本も植わっているんだそうで

栃木県の景勝100選にも
選ばれているんですよね α(・_・)

喜連川宿の入り口とも言える
荒川にかかる ”連城橋” が見えてきました


旧道を進んでくれば
荒川沿いにここに出てきたんですね

この橋の前には道標がありますね


右江戸道、左下妻道
って書かれています


昔は道標や一里塚は
旅する者の頼りどころだったんですね


え! 江戸時代には地図はなかったのかって?

もちろんありましたよ α(・_・)

戦国時代を集結させたのは ”織田信長”
って言うことになりますけど

実際には争いは絶えていませんし

”豊臣秀吉” の時代になっても
まだ冷戦状態が続いていますよね

戦時下の臨時政権として
朝廷から征夷大将軍が委任される形で執り行われていたんですけど

日本の中央政権では諸国は
朝廷に完全に属しているわけではなく半属半独

他国に自国内の情報が漏れるのは命取りだった
とも言えるんですけど

江戸時代には4回
諸国に詳細な地図の提出を命令しています

地図の提出は諸国にとっても大変な出費で
命取りになりかねない情報ですけど

街道を使った交易をする上では
必要なものですから協力をしているんですね

日本地図の原型としては ”行基図” が有名で


奈良時代の僧侶 ”行基” が作ったと言われています

しかし地図と言うよりは諸国配置図
って言う感じですかね

日本の詳細地図は ”長久保赤水(ながくぼせきすい)” まで待たなければなりませんが

赤水地図は実に制度の高い
詳細地図だったそうで

赤水地図を踏まえた上で
三角測量で精密地図を完成させたのが40年後の ”伊能忠敬” になりますね


一般には ”江戸切絵図” のような
まぁ、住宅地図ですね


高速道路や鉄道路線図のルートマップのような ”街道絵図” が使われたそうです


切絵図にしても街道絵図にしても
当時はかなり高価だったでしょうね

江戸時代も中期に入ると
庶民の旅も流行ってきます

芭蕉の ”野ざらし紀行” や ”おくのほそ道” などでも
憧れたでしょうし

なんと言っても十返舎一九の ”東海道中膝栗毛” は
コメディタッチで楽しまれたそうですからね ( ̄ー ̄; けっこうエッチぃぞ

旅のマナー集のような本も売られていたそうで
60項目以上の注意が書かれていたんだそうです Σ(・ω・ノ)ノ!

とうぜん
ルートコースに関するハンドブックのようなものもあったでしょうね

僕の遅道でも以前から
事前に調べておいた史跡などを◯◯からR1に出て1kmで□□がある

と言った感じで目標をメールで携帯に送って
地図と見比べながら進んでいたんですけど

最近はスマフォに替えた関係で
Google Maps に点をマークしておいて現在地と比較しながら進んでいます

こうして考えると
一里塚や道標と言う点を書き込んだ案内をたどれば

目的地には着けますから
街道絵図のもっと胆略化した一里塚図みたいなものがあれば

街道旅行はできたでしょうね

諸国から詳細図を提出させていたくらいですから
地図を作る専門家は各地にいたはずですし

大きな移動は一里塚図で行い、目的地近くで
街道絵図のようなもう少し詳細な地図に切り替えれば出費もおさえられますよね

さぁ
喜連川の宿場が近づいてきましたよ o(^▽^)o


市街に入って
この交差点の辺りに奥州街道№33の ”喜連川一里塚” があったそうです (´・ω・`) 痕跡もなし


あ! 観光案内もありますね o(^▽^)o


ここの奥にも
なにかあるのかな? ε≡≡≡ヘ(`・ω・)ノ 行ってみよう

あれ?
みょうに静かな学校ですけど・・・


高校なんですねぇ~


この時間なら
まだ、部活とかやっていそうですけど σ(・_・) 帰宅部でした

よく見ると・・・
廃校みたいですけど・・・

あぁぁぁぁぁっ!

この校舎

見覚えがあると思ったら

ぼくちゅうの
高校でした (;^_^A


実はこの栃木県立喜連川高等学校は
2006年に旧氏家高等学校と統合して

栃木県立さくら清修高等学校になってしまい
こちらの校舎は使われていないんですね

ぼくちゅうの撮影当時は廃校した翌年なんですね

ちなみに
映画での病院のロケは別の廃校した中学校で

現在は小学校として使われていますので
紹介は遠慮させていただきました (*´ω`*)

え! 松尾芭蕉はどうなったのかって?

え、と・・・
こちらは ”僕の遅道” で(300年ほど)後から奥州街道を走っていますけど

松ちゃんは先に ”奥の細道” で
いまごろは那須湯本の辺りですから、明日合流かな (;^_^A 位置的にね

さぁ
もたもたしちゃぁいられない ε=ε=ε=┌(;*´Д`)ノ 足痛いって

元の街道、宿場通りに来ましたよ


え、と、
なんか史跡はないのかな? (・ω・ 。≡。・ω・)

んっ!?
道の駅かと思ったら・・・

”街の駅 本陣” ですって ( ´艸`)


えっ!? 本陣?


実はこの建物は本陣跡に建てられ
明治以降は警察署・郵便局・銀行など幾多の変遷を経て現在は市の施設で

この建物自体は
大正15年(1926年)に建てられた喜連川警察署の建物なんだそうですよ Σ(・ω・ノ)ノ!

1階部分は左が公衆トイレと階段で
正面の入り口はカフェレストラン蔵ヶ崎

2階部分は完全に市の施設で
地域交流室と談話室(ともに有料)

入り口の手前にあるのは ”自噴井戸” なんだそうですよ ( ̄□ ̄;)!!

さぁ、
だいぶ日も傾いてきましたし少し急ぎましょうか εミミミ┌(;*´Д`)ノ 足痛いし


雲に隠れていますけど
もうじき日没ですね (´・ω・`)


次の一里塚はちょっとわかりづらいところで
掘割のヤブの中にあるらしいんだけど・・・ (;^_^A 暗くなってきた


県道r114からちょっと入った
看板の会社(工場)の裏手にあるらしいんですけど・・・


件の工場の入り口ですけど・・・


この工場にそって奥に進んでみましたけど
別の会社の敷地に入りそうで戻って来ちゃったんですね

下の画像のAが2つ上の写真に位置で
Bがすぐ上の写真の位置

実はその先にあったみたいで
暗くもなってきましたし見つけられませんでした (T▽T;)


だいぶ暗くなってきましたけど
日没後もしばらくは明るさが続きますけど

黄昏時は ”たそがれどき” とか ”かわたれどき” なんて読みますけど

夕方の日が沈んでも地平線の下側から空を照らしていますから
足元が暗く空の薄明かりに順応して地上はより暗く見えるからなんですね

薄明かりで人がいるのは分かりますけど
顔が判断できないので

誰ぞ彼(たれぞかれ)→たそがれ
彼は誰ぞ(かわたれぞ)→かわたれ

と、なったわけですね

この薄明かりは ”薄明(はくめい)” って言われて、夕方の薄明は ”薄暮(はくぼ)”
朝の薄明は ”払暁(ふつぎょう)” と分けることもあります ( ̄_ ̄ i) 美人薄命?

夕方のこの時間帯は目での確認がしづらく
不可解なことが起きやすいことから魔物に遭う ”逢魔時(おうまがとき)” とも言われますね

これは決して心霊的な現象だけではなくて
科学的な面でも ”光と影の魔” と呼ばれているんですよね

でも上手に灯りと付き合うと
とっても情報量の多い時間帯でもあるんですね

道交法では日没したら全車両は
前照灯を点灯しなければならないんですけど α(・_・) 自転車もね

日没前の少し早い時間から点灯することを薦めてもいます

ちょっとテスト用に持ってきた ”GENTOS NEX-979R” を
点灯してみましょうか ( ̄□ ̄;)!! メチャ明るい


これで700lmのフル発光ではなく
強・中・弱の中発光なんですよね ( ̄ー ̄; 強で4.5h、中で8h、弱で40h点灯

この時にどこを見ているかって言うと

スポット光の強い部分の先を見ながら
スポット光の手前を意識しているんですね


カーブを抜けた瞬間の写真ですけど
右側に影が迫ってきていますね


実はこれ
右死角に私を追い越している車がいて

その前照灯が路面を照らしているので
影に見えているんですね

振り向いて目視すれば
真横より後にかけて車体が見えると思います

約2秒後の写真ですけど
何が起きているか分かりますか?


私のライトのスポット部の右に別の灯りが来ていますし
赤丸の部分に私の影ができていますから後方の車が追い越しのため右に出たんですね


私も追い越される準備で左に寄りはじめてるのは
ライトのスポット部分が白線にかかっているので分かりますかね?

そして矢印部分や先の情報も読み取っているんですね

日中でも刻一刻と変化する
路面や他の交通と光と影

スマフォを見ながらとか音楽を聞きながらとか
横に並んでおしゃべりなんてしている余裕は・・・ (;^_^A ないですよね

日もすっかり暮れて、明るいうちなら ”きつれ川幼稚園” を目印に
越えると見えてくる ”特別養護老人ホーム にこんきつれ荘” が見えてきました


この、にこんきつれ荘の手前の公園にあるのが
明治天皇御休輦之處碑(めいじてんのうごきゅうれんのしょひ)


明治天皇御休輦之處碑から
約800mで見えてきました、このお宅


実はこのお宅の敷地内にも
奥州街道№35の ”引田一里塚” があるんですね Σ(・ω・ノ)ノ!


明るいうちなら
ちょっと撮影させていただこうかと思いましたけど

すっかり暗いので、やめました (´・ω・`) まだ早いけど

一里塚から500mほどで、大田原市に入ります
この時の時間はまだ20時前


佐久山宿を通過してテント泊の予定ですけど
佐久山宿にはコンビニはなかったはず

その先も八木沢間宿までコンビニはなかったはず

前回、道を間違えたお陰で下見ができていたので
3.5km手前のコンビニで今夜の補給を済ませ、あのひと山を越えれば今日は終了だ


ひと山上った辺りで
左に入るのが旧道ですよ


宿場通りび入ると
予想していましたけどひっそりとしています (;^_^A まだ9時前


宿場通りのほぼ真ん中にある郵便局の隣が
奥州街道21番目の ”佐久山宿本陣跡” この石碑の奥側になります


あ! 前回の番外編で黒羽方向から
出てきた場所ですよ o(^▽^)o


さぁて
テント張る場所探そうっと・・・ ε=ε=ε=ε=ε=┌(; ・_・)┘

本日の走行時間5:58(?) 走行距離85.66km
僕の遅道総合計距離2,979.31km(含番外編3,660.66km)


平均時速14.3km/h 最高時速48.1km/h

これまでの街道等の実走行距離
中山道707.58km・東海道712.01km・
甲州街道308.88km・三州街道(伊那、飯田街道)247.46km・
東海道姫街道75.45km・下田街道77.99km・
足助街道(三州街道と重複)28.41km・
日光街道・奥州街道共通編130.47km(一部地図測定
日光・奥州街道共通/Google My Map (別窓で開きます)
日光街道51.74km(含共通部182.21km一部地図測定
日光街道/Google My Map (別窓で開きます)
奥州街道(奥州道中)85.66km
奥州道中/Google My Map (別窓で開きます)
奥州街道現在の延長距離(日本橋から21. 佐久山宿)216.13km

番外編 2013年冬の東北333.67km・番外編 日光御成街道67.52km・
番外編 三鉄全線再開記念183.51km・
番外編 芭蕉の足跡 日光⇒那須野編96.65km
おくのほそ道 芭蕉の足跡 (別窓で開きます)


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